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そばにいて、そしてキスをして

第7章 私じゃなくて

「…すみません。オレがそんなこと言っても真緒さん、困りますよね」

洋輔は椅子をガタッとならして立ちあがった。真緒は何と言えばいいのか返答に困った。

「ただ…学部の頃から真緒さんを見てて…なんか、全然ちゃんと恋愛できない人だな、って。あ、その、偉そうに言ってるんじゃなくて」

洋輔は知っていたのだ。
松田とのぎこちない関係や、それを受け入れてきた真緒を。そしていま、倉沢との関係を深めようとしていることも。

「参ったな。本当にそうだよね」

真緒は、お湯を沸かすためにキッチンに入った。これ以上洋輔に顔を見られたくなかった。まだ、真緒が知らない自分を暴かれそうな気がして。

「帰るって言わないでね。コーヒー淹れるから」
「…はーい」

素直で優しくて、周りとの調和をきちんととれて。洋輔のような恋人がいれば毎日楽しいんだろうな、と思う。もしかしたら結婚をして、子どもを産んで、そんな幸せがあたりまえのようにやって来るのかもしれない。

「難しいですよね、生きるのって」

洋輔がコーヒーをひとくち飲んで言った。面倒くさいから、そうまとめて終わらせようとしているのではなく、心からそう思っているような言い方だった。洋輔も洋輔なりに悩みや迷いはあるのだろう。でもそれを表に出さず、ちゃんと自分で消化できる強さが、真緒にとって羨ましかった。

「店、売ってほしいって言われてるの」

最近流行りのM&Aというやつだ。近所の銀行が間に入って、大手の青果店が真緒も含めて買収したいと言ってきたのは1ヶ月ほど前のことだ。立地や売り上げが評価され、真緒には十分な給料も提示されている。新たに従業員も送り込まれるので今よりも楽になるし、悪い条件はひとつもなかった。

「このまま雇われ店長になるか、もう完全に手離すか」
「…ずいぶん急なんですね。ていうか、もう真緒さんの中では決まってるんでしょ」

洋輔は、やっぱり見透かしたように言った。

「私ね、なーんにもしたくないの。もう疲れたの。…疲れた」
「真緒さん…」

本当のことだった。

ただ、倉沢の温もりだけを必要としていた。それが真緒の「今」だった。

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