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そばにいて、そしてキスをして

第8章 それぞれの決断

パリの夏はまだ先だろうな…

倉沢は日本の梅雨明けをインターネットで知った。

肌寒いパリの街を、千帆と歩いた。そう遠くない過去ないのに、ずいぶんと時間がたったような気がする。
まだ駆け出しの指揮者で、千帆は音楽院の学生で。音楽を志す仲間がいて。楽しかったな。

宿泊しているホテルの窓から、セーヌ川を眺めた。

この街は、オレの一番楽しかった日々と辛かった日々、両方を知っているんだな。そう思うと、パリを離れたことを後悔した。千帆との幸せな思い出もたくさんあったのだから。

愛してた。愛されていた。

それらはもう、過去なのだ。ここに、置いていかなければならない。真緒に出会って千帆の身代わりにしようとしたことも、結局は過去に引きずられて生きているからなのだ。

もう、最後にしよう。

倉沢はスーツケースをひいて、ホテルの部屋をあとにした。

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2週間ぶりの日本は、すっかり夏だった。帰るなり、着替えもせずに熱のこもったマンションの空気を入れ替えるために窓を大きく開け放った。部屋に戻り、今度はグランドピアノの突き上げ棒を立てて屋根をあげた。そのまま、ピアノチェアに座っていくつか和音を鳴らした。
すうっと息を吸い、いきなり弾き始めた。ベートーヴェンピアノソナタ8番『悲愴』第2楽章。それは、千帆が弾く曲で初めて倉沢の聴いた曲だった。思い出の曲。随分久しぶり、千帆がこの世を去って以来だ。
これは、レクイエム。
これを弾ききったら、もう終わりにしようと決めていた。
5分とかからない第2楽章が終わると、倉沢はあっさりピアノを閉めた。

「さよならだ。千帆」

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