しのぶ
第1章 1・光への生還
一方、元康は眉一つ動かさず志信に聞き返す。
「曲者、だと?」
志信が膝を付き頷くと、元康は唸る。彼はまだ二十歳になったばかりの若者で顔も中性的だが、背は高く国主としての威厳は充分に備えていた。元康はしばらく悩むと、上半身を晒したままの小姓に着物を渡し、襖を指差した。
「すまない、下がってくれ。誰もこの付近に近寄らせないように」
「……かしこまりました」
この部屋で小姓と元康が何をしていたのか。乱れた布団と二人の着物、そして僅かに鼻を掠める雄の匂いから察すれば容易である。しかし色事に耽っていても、主従関係が崩れる事はない。小姓はたちまち凛々しい表情に変わると、深く頭を下げて部屋を出ていった。
「それで、曲者とは?」
「小早川の間者です。こちらの兵力や兵糧など、戦の情報を念入りに調べておりましたので、始末しました」
「小早川だって?」
元康はその名を聞くと、丸い目をさらに驚きで丸くする。小早川とは長年毛利を支え続けていた「毛利両川」の片割れであり、当主輝元の叔父である小早川隆景の家なのだ。