しのぶ
第1章 1・光への生還
「……いや、それはならない」
だが元康は、静かに首を振った。志信の瞳に僅かな不安が浮かぶと、今度は元康が志信の手を取った。
「確かに、それは賢いやり口だ。他の家の者なら、それで構わないだろう。だが、この戦の総大将は輝様だ。たとえ発起人が石田でも、責任を負うのは輝様なんだ。将が負けると疑い、内通するなど武士の恥。武士がやるべきは、将を勝たせるため駆ける事だけだ」
「……元康様」
「そう心配そうな顔をするな。西軍は、毛利だけではない。上杉も、宇喜多も仲間だ。徳川とて、易々と破れはしないさ」
元康の瞳には一点の曇りもない。健気に主君を支え、信じる構えであった。志信はその表情を見て頭を垂れる。
「血迷った提案でしたね。そこまで殿が輝元様を信頼しているなら、今の話はお忘れください」
「いや、いい。毛利への忠誠を軽んじた訳ではなく、情勢を見つめ最適だと思って話したのだから。むしろ感謝している」
本来忍びとは、己の感情は表に出さないもの。まして仕える相手に提案など、考えられない行動である。そもそも今の話は、よほどの重臣でもなければ口に出せない提案であった。