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メビウス~無限∞回路

第7章 鳴き声(前編

家の前に勇魚は立つ。周辺にある街灯で伸びる影が一つ。片腕を組み瞳を閉じると瞼の奥に映るモノを見る。子猫が最期に見た顔であると確信した。ーー

「我が主の贄に相応しいか…私が味見しますね」

薄く開いた口元に笑みが零れる。人間の恐怖や畏れなどを供物として捧げる。勇魚は浮き立つ心を感じていた。
不愉快なモノであればある程。暗色に幅を広げる相手である程、みっともなく狼狽え命乞いをし、我先にと逃げては自分だけを守ろうとする。そういう意味でも、いたぶりがいがあって深みを供物が持つ。…器の小ささも良い感じだと勇魚はほくそ笑む。

「おいで…」

勇魚が闇に手を伸ばすと、その側にはイソギンチャクに似た…けれど全体を鈍色の殻に覆われた物体が現れる。棘のような触手が殻の奥に出たり入ったりを繰り返しながら勇魚の隣にやってきた。

《私で良いか?》

声帯を使わない声が闇を震わせる。勇魚は視線だけ落としてうっすらと笑みを浮かべる。それは嗜虐に満ちた瞳。獰猛さを露わにすると普段浮かべている笑顔も胡散臭く見えるというものだ。けれどこれは彼の一面に過ぎない。毒を纏うイソギンチャクはヌメヌメとした体液のようなものを点々と残し、闇にゆっくりと溶けて消えた。

ヒトの御霊を転がし、ねぶり嬲ってドロドロに溶かす。それには料理のスキルを磨き、より食材を最大に使える腕を鍛えるのに似ているのかしれないと勇魚は思った。

「さて我が主の糧に相応しい素材ですから、調味料を投入し終えたので……煮込みに入りますか」

男の怒声が聞こえる。小さな子供が大きな声で助けを求めて泣き、女の罵声が物の破壊音と一緒に響く。狭い家に似つかわしく無い車が車道にはみ出し、道を通るのも難しそうに見える。もっとも勇魚には一向に関係ない話だが、窓から覗くと狭い部屋の中で柱に隠れて泣いている子供。周囲に散らばる酒瓶に机に座り、下品な笑い声をあげてテレビを見ている餌。女はどうしているのだろうかと興味で探すと、酒瓶を片手に胡座を掻き、子供になおも罵声を飛ばしていた。

「ああ…あの子、長くないね……」

黄泉に属する勇魚はヒトの御霊を直接に見ることが出来る。薄く淡い水色は今にも消えそうに陽炎を揺らしていた。
これは『殺される】のだろう。恐らく近日中に。ーー

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