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硝子の挿話

第4章 蜜月

 彼は、今………この場所には居ない。
 感じることがあったとしても、これほど実感を持って感じることがあると、胸の痛みは強く。このまま息が止まってしまうのではないかと思った。
 指先から始まった震えは、ゆっくりと確実に全身を蝕みながら広がっていく。我慢し、耐えていた気概が朽ち始めた。

 駄目だ、聞いては駄目だ。

 警笛は強く胸に鳴り響いているのに、抱きしめてくれる腕はこんなに優しいのに―――棘がちくちくと肌を刺し、気持ちに貫いていく。
「…ティア」
 どうして今、そんな甘さで呼ぶのかと、千切れかけた心が叫んでいる。しかし遠くを見ている彼の瞳に自分の姿は影すらも映していなかった。
 海原の果てに流してしまおうと思った気持ちが、漣と一緒に戻ってくるみたいだと思う。打ち消しても打ち消しても、後から後からと流れ込んでくる。一方通行でもいい、と一度は飲み込んだ言葉。一緒にいる為に必要なら仕方ない。無意識の言動に意味を尋ねてはいけない。

 繰り返し、繰り返し。

 何度も、何度だって沈めてみせようと思っていたのに―――言葉を交わし、自らを見て微笑んでくれる。一瞬でも向けてくれる意識があれば大丈夫だと自分に言い聞かせていた。
「………っ」
 きゅっと唇を噛み締める。波間に浮かんだ彼の言葉を波が伝えていた。

 『寂しい』と『側に居て欲しい』。

 囁くよりも小さな声を、波はティアに伝えていた。だからこそあんな場所に倒れていたユウリヤの存在を知ることが出来たのだ。寂しさはティアの胸の内に暗雲を広げていたから。知ることが出来た声なのだと思っている。
 下に力なく伸ばされた掌が、砂の感触を教えるのを強く握りこんだ。爪に細かな砂塵が入り込み痛みが鈍く伝えていたが構わなかった。

 この痛みに比べたらなんでもないことだから。………

「……………か…」
 喉で張り付いた言葉は、やはり形になる前に崩れていた。
 ティアを覗き込む瞳は、確かに心配を示し小首を傾げて見せた。
「何か言ったか?」
 そう聞き返そうとした二人の頭上を大きな雲が覆い始めている。水耀宮は時折、視界さえ遮る豪雨が予告なく始まる場所でも有名だ。
 ティアの唇が微かに戦慄く。何かを言葉にしようとして、伏せて自己の奥に隠してしまう。





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