テキストサイズ

硝子の挿話

第1章 夢幻

 千尋の場合は些細なものだったが、幼児期に髪を引っ張られたり追いかけられたりした積み重ねは、心へと陰をのせる。そうして気がついた時には、内気に磨きがかかってしまっていた。
 そんなことを繰り返してきた千尋だから、初恋さえ上手に迎えていない。瞼の奥にある。

 ―――その、鮮やかな残照。

「恋じゃないですよね…?」
 手摺に両肘をついて呟く。問いに答えるものもない。少し冷えた頬に、掌の熱が心地いい。どんなに幼い時分から見ていたとは言え、それは夢でしかない。その事実を、唇を噛んで瞼を閉ざす。まばたきすれば、焼き付いた写真のように光景が廻る。
 それでも今、生きている現実には遠く適わない。

 『夢』と言う曖昧な姿。

「…前世、…でしょうか……?」
 夢というには、妙な現実味を心に持っている。現在にないその光景。世の中には、科学や常識では計り切れないものもまだ数多くある。
 薄く瞳を開けた先には、白い月が鈍い光を地上に注いで幻想的な一瞬を築いていた。
 千尋は暗くなる自己を回避するために、再び両目を固く閉ざす。
 月に向かい、両の掌を翳し、肩に入っている力を抜き、顎を突き出すように背伸びしながら、ゆっくりと鼻から息を吸い、口から吐き出し深呼吸をした。
 これは千尋の中にある儀式。
 自分に負けそうな時、甘えたい時、支離滅裂する思考をまとめる時にしている。毎日ではないが、月光浴のように月明かりの下に一人たたずむと、霧散している意識が集中出来る。
 闇を心に纏うと、こういう行動を無意識にとり、本人は誰かが見ていない限り、続けている癖だったりする。それは己の中にだけ宿る感覚や哲学があって、他人が見ると変わった習慣に見えようと、それを個性だと言い切り解釈すると簡単だ。

ストーリーメニュー

TOPTOPへ