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硝子の挿話

第5章 白夜

「………」
 再び沈黙が訪れた一室に、重さが増す空気を少しでも軽く出来ればと、アルコバレーが一番好きだと言う『雪原』を奏でだす。なだらかな丘の上にしんしんとただ降り注ぐ白く儚い結晶。ゆっくりと広がっていく白銀の世界。
 時にヒトを惑わせ、死に至らすこともある。大いなる氷雪神の嘆きが吹雪を作りだすと伝え聞いたことがあった。
 雪以外、何も見えない白い闇。―――

「わしに弟子入りして、もう…十年か」

 音が止むと、感慨深げに呟きながらアルコバレーは先ほどから認めていたものを丸め、ユウリヤの前に差し出した。
「受け取るがいい…」
「これは…?」
 柑橘の香りが鼻腔を擽る。何か他人には見られてはならない文章なのだろうかと、ユウリヤが小首を傾げるとアルコバレーはくくっと喉を押さえて笑いながら、片手に持たれたままの楽器を受け取る。
 同じ『雪原』を奏で出す。声紋や指紋があるように一人一人で奏でる音にもたったひとつがあるようだと思った。
「わしの旧知の友への手紙だ」
「………届けろということですか?」
 受け取ったのをまじまじと見て呟く。アルコバレーはその見た目にも出ている繊細さで音を紡ぎながら笑みを浮かべていた。

「………月空宮にヤツはいる」

 粉雪が氷上に舞う楽の音が静かな夜に広がり、月が煌々とその明るさを現して風に運ばれる音を楽しんでいた。









 旅支度を全て終えて歩き出した。少年から青年へ変貌を前にしたユウリヤは、国境へ差し掛かり一度だけ故郷を振り返った。
 新たな意志と意味を持つ眼差しが揺れる。不安は今、不思議と無かった。
 解放されたような、肩に重く圧し掛かっていた荷が下りた時みたいだと思うほど、清清しい気持ちが胸に宿っていた。
「姉さん、母さん………そして父さん」
 アルコバレーは足を少し引きずりながらも、ユウリヤの自宅へ訪れて口添えをしてくれた。

『子はいつか親から巣立つものだ』

 アルコバレーの元へ、行かせたのは父であったこともあり。三日を期限として待ったが、とうとう父とだけは何の言葉も交わせず、自身を認めてくれずに終わるのだと思った出立の朝―――。

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