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硝子の挿話

第6章 瓶覗

 強く強く…ただ強く名前を呼ぶことしかできない。



千の悲嘆を重ねる魂に、万の言葉では足りない。




 どんなに沢山の想いをこめた言葉でも、空気に触れれば儚く消えてしまう。名には深い言霊と意味を持つという教えがある。だから、言葉にならない想いの欠片を寄せ集めて名前を呼んだ。
「…ユウリヤ…!」
 抱きとめた掌を震わせて、辛そうに伏せた瞳。彩を少しずつ失っていく。
「元々、無理を笑顔で隠して、最後の一線は俺でさえ侵入を拒む女だった…」
 反復の機会を狙おうとさえ、思ったこともあったが、彼らはそれを望まなかった。
 それは弱さから出る脆弱だとも思えたし、立ち往生するだけの自身に強い嫌悪もある。雁字搦めに腐るだけの月空宮から離れた。

「…至上の音は胸に…」

 隙間から開かれた紙の最後に記された言葉。ジーという男が綴ったとは思えない。固く強いのにしなやかな一文だ。
 ユウリヤはくらくらと濁った気持ちと、浄化の術を持たずに、闇雲に暴れる衝動を、一瞬の解放を欲した。
 狂い、荒れるばかりの激情。心の闇が全身を支配して、生きていることさえ拒否したいと思っていた。
「死んでしまえ、と思っていた………何一つ出来ないのであれば」
 不平不満は、満場の世の中に浸透していることを、改めて胸に深く刻まれる。
「自分が終わってしまえるなら…どれだけいいか」
 遺言とも言える手紙が、全身を強化された鎖が縛る。世界全てが敵のように、憎しみは蓄積していくのに。飢えて渇く感情と、雲泥に沈殿していく心情。
 その相乗効果は精神を朽ちさせていた。

「だから海に落ちていたのは、偶然なんかじゃないんだ…」

 全てを一息に吐き出して、堅く閉ざしていた思考を吐露する。誰かに言って楽になるとは思わないが、ティアには知って欲しいと思った。
「もう、どうにも苦しくて喧嘩して落ちたんだ…」
 簡単に投げ出していい命ではない。他人ならばそう簡単に断絶して終わる。絡まった糸が解けずに喉元を締めつけて喘いでいる。

「…まだ傷むのですね…」

 裂けた傷は塞がる前に生傷を剥がされ、今も見えない流血を続けている。―――雨が不意に止んだ。無風に寄せる波の音が、軋んだ精神を癒そうと奏でていた、音。



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