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501号室

第1章 気になる部屋①

 古ぼけた建物の裏には、猫の額ほどのスペースがあって、どうやらそこが看護士さんたちが〝庭〟と呼んでいる場所のようでした。
 看護士さんはそれからすぐに部屋から出てゆき、話はそれきりになりました。
 それでも、私はあのときの看護士さんの愕いたような、凍りついたような表情がいまだに忘れられません。
 その日の夕方、入浴時間になりました。私はいつものようにエレベーターに乗り、五階のボタンを押しました。扉が開き、私はゆっくりと歩いて五〇一号室の前に立ちました。
 看護士さんの言葉どおり、五〇一号室の前のプレートは空白、誰の名前もあるはずもなく、しかもプレートそのものも明らかに長らく使用していないと判るほど変色していました。
 よくよく見れば、やはり、部屋のドアもしっかりと閉じられ、およそ人の気配というか温もりは感じられません。私は咄嗟に、ドアを開けてみたい衝動に駆られましたが、止めておいた方が良いと思い直しました。
 他人に聞かれれば笑われるかもしれませんが、もしかしたら、その固く閉ざされたドアは常ならぬ世界へと通ずる扉であるかもしれないと考えたのです。恐らく、あの時ドアを開けたとしても、使っていないベットが並んだ、殺風景な大部屋の光景がひろがっているだけだったとは思いますが―。
 流石に、空白のネームプレートを見た瞬間は、私自身も背筋が冷たく、ヒヤリとしたものが身体中を巡りました。
 私の母親の年代の人たち―つまり、当時五十代だった人たちが出産期だった時代、この病院は知る人ぞ知る病院でした。当時の院長先生はもちろん、既に亡くなられていましたが、その頃でもかつて名医として知られたS先生の名前を懐かしげに語る母親世代の婦人は数多くいたのです。
 むろんのこと、その時代には五〇一号室もたくさんの女性たちで賑やかだったことでしょう。しかしながら、悲喜こもごも、常に生と死が隣り合わせというのは、何も普通の病院だけではなく、生命の誕生という明るい希望に満ちあふれた場だと思われがちな産婦人科病院だとて同様です。
 恐らく、長い歴史を持つその病院にも、無事出産を終え、可愛い赤ちゃんを腕に抱いて晴れて退院するお母さんだけではなかったことでしょう。そんな心和む晴れやかな光景の陰には、知られざる悲劇が幾つも存在したはずです。

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