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龍虹記(りゅうこうき)~禁じられた恋~

第1章 落城~悲運の兄妹~

 だが、勝手に水浴びなどしているところを嘉瑛に見とがめられでもしたら、また半殺しの折檻を受けるかもしれない。
 何しろ、あの男は癇性で、ただ虫の居所が悪いというだけの理由で、平気で他人を斬るのだ。そんな風にして無惨に殺された者を千寿は何人も見た。
 城の奥向きに上がったばかりの若い娘が嘉瑛に見初められたことがある。が、その娘には既に許婚者がいたのだ。当然、娘は嘉瑛の寝所に侍ることを厭がり、結果として、嘉瑛は娘を無礼討ちと称して斬り捨てた。
 千寿のすぐ前に小姓を務めていた少年は、茶を持ってこいと命じられ、運んできた茶が少々熱かっただけで、滅多打ちにされ、その怪我が元で亡くなった。
 要するに、人の生命を奪うことに、いささかの心の痛みも感じない冷血で悪鬼のような男なのだ。
 千寿は嘉瑛の前に出るときは、相当の気を遣った。ゆえに、いかに水汲みのついでに水浴びをするのだとしても、嘉瑛に知られないように気をつけた。折角汚れを落としたにも拘わらず、厩に戻る際には、再び泥を身体中になすりつけ、垢と馬の匂いがこびりついた着物を身につけて帰った。
 ある日、千寿はいつものように水汲みに来た。泉水のほとりで着物と袴を脱ぎ、きちんと畳んで側に置く。
 透明な水に入ると、気持ち良さげに手脚を伸ばした。折しも初夏の季節とて、小さな泉水の回りを取り囲むように紅海芋の花が群れ咲いていた。ここが千寿の最も好きな場所の一つの所以(ゆえん)である。ほんのりと色づいた筒状の花たちが一斉に今を盛りと咲き誇っている光景は、圧巻でさえある。紅海芋の花に混じって、薄蒼く染まった紫陽花も見られた。
 水に浸かりながら、紅海芋の花の園に取り囲まれていると、まるで夢の世界に遊んでいるようだ。時折、爽やかな風が水面を渡る度に、紅海芋の花がかすかにそよぎ、紫陽花の緑の繁みがさわさわと揺れた。
 たおやかでありながらも、己れを見失わず凜とした佇まいを見せる紅海芋の花は、亡き母勝子を彷彿とさせる。美貌を謳われながらも、けしていかなるときも信念を失わぬ芯の強い女性であった。
 妹の万寿姫は、容貌は母の美しさをそのまま受け継いでいるが、性格は全く違う。万寿姫の大人しやかな気性は、恐らく父ゆずりのものだろう。

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