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龍虹記(りゅうこうき)~禁じられた恋~

第1章 落城~悲運の兄妹~

 むしろ、千寿自身が容貌も勝ち気さも母のものをより強く受け継いでいるのだろうと思う。千寿もまた母に生き写しであった。もしかしたら、妹よりも千寿の方が更に母に似ているかもしれない。
 千寿は嫡男ゆえ、むしろ母の男勝りの部分を受け継いで良かったのだろう。ただ、この下克上の乱世では、男だけではなく女もまた強くあらねばならない。いつ、住み慣れた城が落ち、敵方に捕虜の身となるやもしれず、親や兄弟の言うがままに政略の道具として敵国へ嫁さねばならない。ひとたび嫁いで良人となっても、婚家が敵地である限り、良人に心を許さず、万が一には寝首をかく覚悟さえしておかなければならないのだ。
 果たして、あの気の弱い泣き虫の妹に、この苛酷な日々が耐えられるか、千寿はひたすら妹の身を思っていた。
 ざわりと、紫陽花の繁みが音を立てて揺れた。
 考え事に耽っていた千寿はハッとして、音の聞こえてきた方を見やる。
「誰?」
 誰何しても、返事があるはずもなく、小さな泉水の面に小さな波紋が幾つも浮かんでいるだけだ。
「風―」
 千寿は呟くと、急に身体が冷え切っていることに気付いた。まだ水無月初旬の水は冷たい。千寿はかすかに身を震わせると、陸(おか)へと上がり、身体についた水滴を手ぬぐいで丁寧に拭き取った。ふと背中に手を伸ばした時、小さな痛みを憶え、千寿は身動きを止めた。
 もう、痛むはずのない背中の傷痕は、何故か時折、ちくりと痛む。もしかしたら、それは心の痛みなのかもしれなかった。嘉瑛に捺された灼き印に触れる度、自分があの男の所有物だといやが上にも思い知らされ、耐えがたい屈辱に震えた。
 あろうことか、背中に捺された灼き印は、嘉瑛自身の花押を図案化したものであった。あの男は、自らの名を千寿の身体に刻印したのだ。この印は、未来永劫消えることはない。

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