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龍虹記(りゅうこうき)~禁じられた恋~

第2章 流転~身代わりの妻~

「ここの花があまりに見事ゆえ、万寿姫に持ち帰ってやろうと思うたのだが、それが、どうしたか」
 低い声で言われ、千寿はまたしても余計なことを言った。
「お館さま、我が妹は心優しき娘にて、摘まれた花を頂いたとしても、けして心より歓びはしませぬ。むしろ、摘まれた花の生命を不憫にも思い、泣きましょう」
 嘉瑛の眉間の皺が一段と深くなった。
「ええい、煩いッ。笑顔一つ見せたことなく、日がな泣いてばかりおる泣き人形のような姫に心なぞあるものか。貴様は、万寿姫の兄であろう、兄であれば、妹の心が判るはずだ。泣いてばかりおる、つまらぬ女だが、あんな女でも、取りあえずはこの国に馴染んで貰わねばならぬ。あの姫を笑わせるためには、どうすれば良いのだ」
―あなたご自身が無益な殺生をお止めになることこそが、万寿姫を歓ばせましょう。
 もし仮に嘉瑛が分別を備え、民を思いやることのできる男だったとしたら、父もまた二人の婚姻を快諾したはずだ。
 しかし、それは、いかにしても言葉にはできない。無言で立ち尽くす千寿の前で、嘉瑛が腰に佩いた剣の鞘を払った。
 この森はさして深くはないが、それでも最奥まで行って帰ってくれば、ゆうに二日はかかる。泉水のあるこの辺りはまだ入り口近くゆえ、重なり合った緑の樹々の隙間から、真昼間の陽光が差し込んでいた。そのかすかな陽の光を受けて、鈍いきらめきを放つ剣を嘉瑛が振り上げる。
―今度こそ、斬られる!
 千寿は思わず、咄嗟に眼を瞑った。
 が、いつまで経っても、斬られた様子はなかった。こわごわ眼を開くと、嘉瑛が暗い眼をして、紅海芋の野原を見つめていた。
「どいつもこいつも、口煩い奴らめが!」
 嘉瑛は喚き散らしながら、刀を縦横無尽に振り回す。その弾みで盛りと咲き誇った薄紅色の花たちが無惨にすっぽりと頭を落とした。嘉瑛は次々に花の首を落としてゆく。
 伝説の戦神と讃えられる嘉瑛は、実際に戦場へと出れば、このように刀を振り回して人の首を次々と落としてゆくのだろうか。もっとも、出陣の際、嘉瑛が必ず持参するのは、普段持ち歩いている刀ではなく、長刀である。
 千寿は、戦で馬に跨り、刀で敵将の首を薙ぎ払う嘉瑛の姿を今ここで見ているかのような気持ちになった。

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