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龍虹記(りゅうこうき)~禁じられた恋~

第2章 流転~身代わりの妻~

 その時、運悪しく、紅海芋の花の向こう―嘉瑛からわずかに離れた前方に白い毛玉の塊が見えた。
―兎だ。
 千寿は思わず握りしめた拳に力を込めた。
 嘉瑛の双眸がぎらりと光った。
 まるで鷹が天空のはるか高みから、地上の獲物を見つけたときのような油断ならぬ光を放っている。
 嘉瑛が背中の矢筒から一本の矢を取り出した。
―危ない、逃げるんだ。
 千寿が咄嗟に心で叫んだのと嘉瑛が放った矢が兎に深々と命中したのは、ほぼ同時のことだ。
「犬、あれを持ってこい」
 命じられ、千寿は不承不承、倒れている兎の側までいった。白い兎はまだ子兎で、珍しいことに、嘉瑛の矢は兎の心ノ臓ではなく、前脚を貫いていた。普段であれば、まず一発で息の根を止めるのだが、流石に名手も今は心が乱れていたのか。
 抱き上げた子兎は、まだ息があった。適切な手当をしてやれば、生命は助かるだろう。
「いかがしたのだ、早うに持って参れ」
 嘉瑛の声が癇性に苛立ち、千寿はうなだれて兎を腕に抱いたまま引き返す。
「まだ生きておるのか」
 嘉瑛がつまらなさそうに言い、手を伸ばした。
「寄越せ。息の根を止めてやる」
 千寿はやわらかな子兎をひしと抱きしめ、涙ぐんで烈しく首を振った。
「俺の申すことが聞けぬというか、犬」
 嘉瑛の額に青筋がはっきりと浮かんだ。相当、機嫌の悪い証拠である。
「お館さま、この子兎にも親や兄弟がおりましょう。今なら、まだ手当をしてやれば、助かりまする。手当をすることが叶わぬと仰せなら、せめて、このままにしておいてやっては頂けませぬか」
 千寿は死をも覚悟で懇願した。
「ならぬ」
 嘉瑛は無情にひと言投げ捨て、顎をしゃくった。
「どうも、今日のそちは出すぎた物言いが多いようだの。犬は飼い主に忠実であれとあれほど申し渡しておったのを忘れ果てたか。貴様は敵将の遺児、俺がその気にならば、すぐにでも息の根を絶てることを忘れるな。兎の生命の心配よりは、己れの身の心配をするが良い」

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