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龍虹記(りゅうこうき)~禁じられた恋~

第2章 流転~身代わりの妻~

 千寿は改めて、紅海芋の花畑を見つめた。半分以上は嘉瑛に花をもがれてしまったけれど、残りの花は幸いにしてまだ手付かずのまま、たおやかな花を咲かせている。
 震える手で子兎を抱き上げ、そっとやわらかな白い毛並みに頬ずりする。せめて浄土で永遠の眠りにつけるようにと、その亡骸は薄紅色の海芋の花が群れ咲く一角に葬った。

  宿命

 万寿姫と嘉瑛の婚礼もいよい三日後に控えたというある夜のことである。夜半、千寿はふと物々しい音に気付いて、めざめた。
 人声に混じって悲鳴や泣き声までも聞こえてくる。あれは、木檜城の奥御殿からではないか。察しをつけた千寿は飛び起き、厩から出た。厩は城門近くに建っている。伸び上がるようにして気配を窺っていると、若い男が急いだ様子で眼の前を走り過ぎるのに出くわした。
 千寿は慌てて、男を呼び止めた。
「もし」
 振り向いた男の貌に見憶えがあるどころか、男は牢内で瀕死の千寿を助けてくれた牢番の伊富(いとう)恒吉であった。恒吉の家は代々、牢番を務めてきて、武士としては最も耳分の低い足軽扱いであった。歳は二十三になるといい、兄のおらぬ千寿にとっては、いつしか頼もしい存在となっていた。
「おう、若か」
 恒吉はひそかに千寿のことを〝若〟と呼んでいる。
「恒吉どの」
 千寿は深々と一礼すると、問うた。
「何やら奥御殿の方が俄に騒がしき様子にござるが、何事か起こったのか」
「―」
 恒吉は話し好きの、明るい男であった。かといって、雑用でも黙々とこなす真面目さも併せ持ち、軽薄なわけでもなく、面倒見も良く年下の者たちからも兄貴分として慕われている。
 その恒吉がいつになく口ごもったのに、千寿は厭な予感に襲われた。
「何か―あったんだな」
 千寿は、恒吉を真っすぐ見つめた。
 背の高い恒吉と小柄な千寿ではかなり身長差があり、どうしても千寿は見上げる格好になってしまう。
「教えてくれ、恒吉どの。一体、何があったというんだ?」

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