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龍虹記(りゅうこうき)~禁じられた恋~

第2章 流転~身代わりの妻~

 嘉瑛ならば、やりかねない。残忍で無類の好色漢として知られている男だ。殊に、万寿姫は白海芋のごとしと謳われる美貌の持ち主、女好きの嘉瑛が待ちきれず、触手を伸ばしたとしても不思議はない。
「いや、奥向きに上がっている我が姉の話では、お館さまはいまだ姫さまに指一本お触れになってはおられぬそうだ」
 恒吉の姉弥生は木檜城の奥向きに侍女として仕えて長い。その分、奥御殿で顔もきき、恒吉は奥向きの内情に何かと詳しい。
 弥生は万寿姫の身の回りの世話を仰せつかり、常に万寿姫の側近くにいたはずである。その弥生の言葉であれば、信憑性は高いと見て良いだろう。嘉瑛が万寿姫と臥所を共にすれば、そのことをお付きの侍女である弥生が知らぬはずはない。
 どうやら、泉水のほとりで嘉瑛が言った婚礼まで待つという言葉は嘘ではなかったようだ。
「そうか」
 いずれにせよ、万寿姫は死んだのだ。
 あの無邪気で可愛い妹は、もうこの世にいない。
 千寿の脳裡に、妹の様々な表情が甦る。笑顔、泣き顔。十になる頃まで、いつも千寿の後をくっついて離れなかった妹。
「あの子は本当に泣き虫なんだ。最後の最後まで、泣いていたのだろうか」
 千寿の眼から涙の雫がころがり落ちた。
「せめてあの子に逢いたい。最後に抱きしめて、よく頑張ったねと言ってやりたい。恒吉どの、何とかして、妹に最後の別れを告げることはできないだろうか」
 哀しい想いをさせた。辛いことばかりで、死なせてしまった。兄として、自分は妹に何一つしてやれなかった。
「―気の毒なようだが、それは難しいだろうな」
 恒吉は呟くと、千寿を物言いたげに見つめた。
「それよりも、若。そなたの方こそ、身辺には気をつけろ」
「どういうことだ?」
 しかし、恒吉はそれには応えず、なおも千寿を見つめていた。かと思うと、ふわりと抱きしめられ、千寿は驚愕した。
「お前をいっそ、このまま連れて、俺たちを誰も知らぬ遠い場所に逃げたい」
「恒―吉どの?」
 予期せぬ囁きに、千寿は大きな瞳を見開く。

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