テキストサイズ

龍虹記(りゅうこうき)~禁じられた恋~

第2章 流転~身代わりの妻~

「さりながら、我が家はたとえ軽輩とはいえ、お館さまにお仕えしてきた。今は、それも叶わぬことじゃ。第一、若を連れて逃げたところで、即刻お館さまの手の者に捕まるのがオチだ。若、万が一、そなたが首尾ようここを逃れ、いつか長戸家再興の旗を揚げるときには、この俺を思い出してくれ。俺もそんな噂を聞けば、すぐにそなたの許に馳せ参じようぞ」
「恒吉どの」
 恒吉が想いを振り切るように、千寿から離れた。
「若、たとえ何があっても、耐えることだ。生命一つさえあれば、いつでもやり直しはできる。万寿姫おられぬ今となっては、長戸氏直系の血を引くのは若のみとなった。若さえ元気でいれば、いずれ、お家再興するのも夢ではない。御身、大切になされよ。何があっても、早まらず、生命だけは大切にな」
 もしかしたら、この時、恒吉は遠からず千寿の身に起こるであろうことを漠然と予測していたのかもしれない。
 主君嘉瑛が囚われの少年に向ける瞳の奥には、尋常ならざる光が宿っていることを見抜いていたのだろう。
―生命だけは大切になされよ。
 くどいほど念を押し、恒吉は〝では、ご免〟と軽く頭を下げて走り去った。
「恒吉どの!」
 何故かこのまま別れては二度と逢えぬような気がして、千寿が声を張り上げると、恒吉が立ち止まった。首だけねじ曲げて振り向いた男が叫んだ。
「今のは義兄弟の固めの杯の代わりよ。若、たといいかほど離れようと、これより我らは真の兄と弟じゃ。もし、若がお家再興を心から願うたときには、俺は必ずや若の許に馳せ参ずるぞ」
 義兄弟の固めの儀式―というのが、先刻の抱擁であるとは、千寿にも判った。そのどこか言い訳めいた言葉が、そのときの恒吉の千寿への精一杯の意思表示だと、十五歳の千寿は気付くことはなかった。
 伊富恒吉―後の伊富重(じゆう)吾郎(ごろう)克矩(かつのり)、生涯妻を娶らず、終始主君である千寿に影のように寄り添って生きた武将の若き日の姿であった。
 千寿はその場に立ち尽くしたまま、恒吉の姿が夜の闇の向こうへと消えるのをいつまでも見送っていた。

ストーリーメニュー

TOPTOPへ