テキストサイズ

龍虹記(りゅうこうき)~禁じられた恋~

第2章 流転~身代わりの妻~

「心得ておくが良い。長戸通親の遺児、一子千寿丸は囚われの身を儚んで自害、見事な最後であった。葬儀は簡素に執り行い、二日後の万寿姫との祝言は予定どおりに盛大に行う」
 血の気の引いた千寿丸の前で、襖が閉まった。
「馬鹿な」
 千寿は呟きながら、その場にくずおれた。
「万寿、私は、どうしたら良い? このままあの卑劣な男の思うがままの傀儡(くぐつ)として偽りの生を―そなたの身代わりとして生きるしかないのか」
 守るべき最愛の妹も失った今、自分がこの現世(うつしよ)にとどまっている理由は何もなくなった。自分も、そろそろ楽になっても良いのではないか。
 そう思った時、
―どのようなことがあっても、必ず生き延びよ、千寿。
―この家を、長戸の家を頼むぞ。
 父の今わのきわの言葉が耳奥でこだました。
 両親に託されたのは何も妹だけではない。足利氏の流れをも汲む名門長戸家の血筋を守ることも託されたのだ。
 己れの肩に背負った家の重みを、これほどまでにずっしりと感じたことはいまだかつてなかった。
―私は、まだ死ねぬのだな。
 千寿は少し自嘲気味に心で呟いた。
 だが、木檜嘉瑛という男の考えていることは、依然として判りかねた。
 男の自分を万寿姫の身代わりに仕立て、一体、どうするつもりなのか。
 男の心を計りかねたまま、千寿は妹の眠る枕辺に座る。
 そっと顔にかけられた白い布をめくると、その表情はまるでただ眠っているかのように安らいでいて、〝万寿〟と呼べば、すぐにでも眼を開きそうにも見えた。
 自害という言葉から、どれほど苦しみながら逝ったのかと想像していただけに、妹の安らかな死に顔はわずかながら、千寿の心を慰めてくれた。
 掛け衾(ぶすま)の上には、ひとふりの懐剣が置いてあり、これは紛うことなく母勝子が妹に与えたものに相違ない。
 黒塗りの鞘と柄に桜の蒔絵が施されており、見事なものだ。恐らく、妹は暁方見た夢のように、この懐剣で喉許をかき切ったのだろう。

ストーリーメニュー

TOPTOPへ