龍虹記(りゅうこうき)~禁じられた恋~
第3章 逃亡~男の怒り~
季節はいつしか初夏から夏へとうつろっている。花期の長いことで知られる海芋の花もとうに散った。白鳥の城が落ちてまだ三月(みつき)も経たぬというのに、もう随分と月日を数えた気がする。
ほのかに藍色の滲む白く円い月を眺めながら、千寿は涙の滲んだ眼をそっと袂で押さえた。
―父上さま、母上さま、私はこんな辱めを受けてまで生きねばならぬのでございますか?
心で亡き両親に呼びかけてみる。
帰りたい、白鳥の国へ、生まれ育った故郷へと。
月が愕くほど間近に迫って見えた。
その蒼白い影の輪郭さえなぞれるのではないかと思うほどに近く、白んだ満月がほのかな光で地上を照らしている。
千寿の思いつめたような横顔を、満ちた月が淡い宵闇の中に浮かび上がらせていた。
木檜城主木檜嘉瑛の奥方万寿姫の姿が忽然と消えたのは、その二日後の翌朝のことであった。
その夜、嘉瑛はいつものように最愛の妻と濃密な夜を過ごし、至極満足した面持ちで表御殿に戻っていった。万寿姫の様子も別段、何ら不審な点はなかった―と、これはお付きの侍女たちが口を揃えて証言している。
嘉瑛は狂ったように妻のゆく方を探し回ったが、それこそ美しい奥方は霞のようにかき消えてしまった。その朝、お付きの侍女の弥生が寝間を覗いた時、既に布団はもぬけの殻であった。嘉瑛は奥方と共に夜を過ごしてもこれだけは、律儀に陽が昇る前には起き出し、表に戻る。
どれほど妻と閨で戯れようと、妻の部屋で寝過ごすといったことだけはなかった。ゆえに、その朝も嘉瑛が帰っていった後、万寿姫はしばらく一人で寝所で伏せっていた―と、誰もが思っていたのだ。奥方の寝室は三間続きの最奥であり、廊下に出るには居間、控えの間と通らなければならない。昼夜を問わず、控えの間には侍女が常に待機していた。
それはむろん、長戸氏の血を引く姫の脱走を怖れ、良人嘉瑛が付けたものだ。護衛といえば聞こえは良いが、体の良い監視役である。
では一体、姫はどこから外へと逃れたのか。それは当然の疑問ではあったが、直にその応えは知れた。その早朝、姫は厠にゆくと告げて一度、部屋を出ていっている。高貴な女人というのは厠でさえ一人ではゆかぬものだが、姫の場合、男であることが露見してはまずいので、侍女を近付けることはなかった。
ほのかに藍色の滲む白く円い月を眺めながら、千寿は涙の滲んだ眼をそっと袂で押さえた。
―父上さま、母上さま、私はこんな辱めを受けてまで生きねばならぬのでございますか?
心で亡き両親に呼びかけてみる。
帰りたい、白鳥の国へ、生まれ育った故郷へと。
月が愕くほど間近に迫って見えた。
その蒼白い影の輪郭さえなぞれるのではないかと思うほどに近く、白んだ満月がほのかな光で地上を照らしている。
千寿の思いつめたような横顔を、満ちた月が淡い宵闇の中に浮かび上がらせていた。
木檜城主木檜嘉瑛の奥方万寿姫の姿が忽然と消えたのは、その二日後の翌朝のことであった。
その夜、嘉瑛はいつものように最愛の妻と濃密な夜を過ごし、至極満足した面持ちで表御殿に戻っていった。万寿姫の様子も別段、何ら不審な点はなかった―と、これはお付きの侍女たちが口を揃えて証言している。
嘉瑛は狂ったように妻のゆく方を探し回ったが、それこそ美しい奥方は霞のようにかき消えてしまった。その朝、お付きの侍女の弥生が寝間を覗いた時、既に布団はもぬけの殻であった。嘉瑛は奥方と共に夜を過ごしてもこれだけは、律儀に陽が昇る前には起き出し、表に戻る。
どれほど妻と閨で戯れようと、妻の部屋で寝過ごすといったことだけはなかった。ゆえに、その朝も嘉瑛が帰っていった後、万寿姫はしばらく一人で寝所で伏せっていた―と、誰もが思っていたのだ。奥方の寝室は三間続きの最奥であり、廊下に出るには居間、控えの間と通らなければならない。昼夜を問わず、控えの間には侍女が常に待機していた。
それはむろん、長戸氏の血を引く姫の脱走を怖れ、良人嘉瑛が付けたものだ。護衛といえば聞こえは良いが、体の良い監視役である。
では一体、姫はどこから外へと逃れたのか。それは当然の疑問ではあったが、直にその応えは知れた。その早朝、姫は厠にゆくと告げて一度、部屋を出ていっている。高貴な女人というのは厠でさえ一人ではゆかぬものだが、姫の場合、男であることが露見してはまずいので、侍女を近付けることはなかった。