テキストサイズ

龍虹記(りゅうこうき)~禁じられた恋~

第3章 逃亡~男の怒り~

姫は厠の小窓から器用に抜け出したのだ。大の男であれば、まず通り抜けることは不可能だが、姫のように華奢で小柄な少女であれば、容易にそこから庭へと出られただろう。
 誰もが、狐につままれたような話だと真顔で言った。婚礼を迎える日まで泣いてばかりいたあのいかにも儚げな少女に、そのような大胆な仕業ができたのが俄には信じられなかったのだ。が、皆が万寿姫だと思い込んでいた少女が、実はその兄千寿丸である。少年の千寿にとっては、厠の小窓を使って脱出することなど容易いものであった。
 だが、それにも解せない部分はある。厠から出た姫がいつまで経っても部屋に戻ってこなければ、当然、控えの間に詰めていた侍女が不審に思うはずだ。
―そなたは奥方さまが厠よりお戻りにならるるところを確かめたのでありましょう?
 弥生は事件後、まだ若い侍女の茜に問うたが、茜は蒼い顔で身を縮めた。
―申し訳ござりませぬ。私、あまりに眠くて、ついほんの一刻だけうたた寝をしてしまったのでございます。
 それが、丁度、姫が厠に行った時間と符号しているという。つまり、姫が部屋を出たのを見送った茜は、再び厠から戻ってくるのは確認はしていなかったのである。
―愚かなことを。何ゆえ、奥方さまのお帰りになっておらるるかどうか、確かめておかなかったのじゃ。
 弥生は牢番を務める伊富恒吉の姉である。足軽大将の妻として、良人の間には三人の子どもたちがいたが、木檜城の奥向きに仕えて重きをなしていた。
―申し訳ございませぬ。
 十八になったばかりだという茜は新参者であった。姫が失踪したと判った時、城内は大騒動になった。その時、すぐにでもそのことを申し出たようとしたのだが、姫の姿を確認しなかったのは明らかな自分の落ち度であった。そのことを咎められるのが怖くて、つい言えずにいたのだと、茜は泣きながら打ち明けた。
 つまり、万寿姫は厠から自室に戻ってくることはなかったのだ。茜の告白で、すべては辻褄が合った。
 万寿姫のゆく方は杳として知れなかった。
 嘉瑛は大勢の家臣を手分けして捜索に当たらせたが、城下には一軒一軒しらみつぶしに当たっても、それらしい少女は見つからなかった。

ストーリーメニュー

TOPTOPへ