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龍虹記(りゅうこうき)~禁じられた恋~

第3章 逃亡~男の怒り~

白鳥の国に残る長戸氏一族はいない。傍系の一族も殆ど嘉瑛によって攻められ、殺されてしまったからだ。辛うじて残っているのは長戸嘉久(よしひさ)だけだ。嘉久は父通親の大叔父に当たり、もう七十近い高齢である。その名が示すごとく、長戸氏の中では唯一の裏切り者であった。
 嘉瑛が挙兵をした際、嘉久はすぐに木檜嘉瑛に寝返った。それまでは義久と名乗っていたのをわざわざ嘉瑛の片諱を取って〝嘉久〟と改名するほどであった。
 あんな男は長戸家の面汚しだと、滅多と他人の悪口を言わぬ父でさえもが詰った。昔から狡猾で、我が身を守るためであれば平然と味方を裏切ることのできる人物であることは周知の事実であったらしい。
 千寿は手許を見て、吐息を洩らす。残った握り飯は一個だけになった。夏のことゆえ、長持ちもしないし、第一、城を出て丸二日、森の中をあてどもなくさまよい続けている。森そのものは二日もあれば抜けられるが、今、森を出るのは危険すぎる。嘉瑛は当然ながら、千寿のゆく方を追っているだろう。森を出てのこのこと姿を現せば、捕まえて下さいと頼んでいるようなものだ。
 かといって、森の中でもまた常に危険と隣り合わせだ。獣もいるし、夜盗が時折出ることもあるというではないか。
 いつまで、このような逃避行を続ければ良いのだろうかと考えると、心細さに涙が出そうになる。幾ら気丈だとはいえ、まだ十五歳の少年にすぎないのだ。
 千寿が暗澹とした想いに耽っていると、背後で脚音が響いた。
 思わずビクリと身を竦める。
「あれま、旅のお人かえ」
 恐る恐る振り返ると、三十五、六の人の良さそうな女が立っていた。髪を後で一つにまとめ、布で包んでいる。その同じ布で拵えた粗末な小袖や前垂れを見る限り、この界隈に住む猟師の女房といった風に見えた。
 手桶を下げているところを見ると、水汲みに来たらしい。
 海芋の花のような美貌を誇った母勝子とは似ても似つかないが、丸い顔には優しげな微笑を湛えていて、それは何故か亡くなった母を千寿に思い出させた。
「ここいらではあまり見かけない顔だけど」
 女は警戒するような様子もなく、気軽に話しかけてきた。

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