テキストサイズ

龍虹記(りゅうこうき)~禁じられた恋~

第3章 逃亡~男の怒り~

 女の名はやす、猟師をしている良人は勘助といった。やす夫婦が暮らすのは粗末な板葺きの小屋であった。夫婦の寝る部屋とやや広く取った居間のふた間あるきりだ。
 勘助は千寿が来るのと入れ替わりに、黙って外に出ていった。
「ごめんね、うちの人ってば、本当に愛想なしでさ」
 千寿が勘助の出ていった扉の方を見ていると、やすが済まなさそうに言った。
「悪い人ではないのだけど、喋るのが苦手なのよ」
 言い訳のように言うやすに、千寿は首を振った。
「いいえ、私の方が急にお邪魔したのですから。かえって、ご主人の方が気を悪くなさったのではありませんか」
「まぁ、子どもがそんなことを気にしなくても良いんだよ」
 やすはそう言うと、早速、飯を炊く準備にかかった。その間、やすは千寿に様々なことを訊ねた。千寿は当たり障りのない範囲で、できるだけ正直に応えた。
 隣国で生まれ育ったこと、両親と妹が亡くなり、一時木檜の国に滞在していたが、急に故国白鳥の国に帰らなければならなくなったこと。
 やすは真顔でその話に聞き入り、相槌を打った。
 やがて、飯の炊きあがった良い匂いが漂い始め、やすは山ほどの握り飯を作った。正直、千寿一人では食べきれぬほどの量だ。
 ほかほかの握り飯は麦飯で拵えたものだが、涙が出るほど美味かった。二個をたちまち平らげ、三個目を手にした千寿がふいに黙り込んで、うつむいた。
 やすが怪訝そうにこちらを見ている。
「どうしたの? やっぱり、少し冷ましてからにすれば良かったかしらねぇ」
 やすが申し訳なさそうに言うのに、千寿は首を振った。
「違うんです」
「えっ、何が違うの」
「こんな美味しいお握りを食べたのは、生まれて初めてだから」
 一国の若君として生まれ育った千寿は、質素倹約を旨とする家風で育った。とはいえ、上等の着物を与えられ、それなりの食事を口にしている城暮らしの身であった。殊に生活に不自由を感じたことはない。
 これまでの千寿であれば、たいして美味いとは思えなかったはずであろう握り飯が、今は極楽のご馳走のように美味しい。

ストーリーメニュー

TOPTOPへ