龍虹記(りゅうこうき)~禁じられた恋~
第3章 逃亡~男の怒り~
後年、千寿は、一度だけ、この猟師の女房を訪ねている。時に千寿は三十を過ぎた壮年となっており、どこから見ても、立派な武将であった。涼しげな目許、秀麗な面立ちは確かに十五歳の頃の面影を残してはいたものの、すっかり様変わりしていた。何より、やすの見た千寿は少女の姿をしていたのだ。
しかし、大人になった千寿をひとめ見て、やすは千寿を十五年前に見た少女だと見抜いたという。この時、既に勘助は病で亡くなり、やすは細々と内職で組紐を作って暮らしていた。千寿はやすの前に跪き、その皺だらけの荒れた手を押し頂いた。
―私が今日あるのは、あなたのお陰にございます。
あの時、故あって女のふりをしていたのだと話し、心からの礼を述べた千寿に、やすは、十五年前と同じようにからからと明るく笑った。
―いやだねぇ。そんなに改まって礼を言われるほど、たいしたことはしてないよ。
やすは、既に五十を越えていた。次の天下人となるのではないか―、そう囁かれるほどの武将になった千寿の姿を見て、〝立派になったねぇ〟と嬉しげに言い、はらはらと涙を流したという。
千寿は、やすに多額の金子と着物を与え、やすは、千寿が十五年前に置いていった懐剣を返した。愕くべきことに、やすはあの懐剣をずっと売りもせず、手放しもしなかったのだ。亡き母の形見はこうして、十五年ぶりに千寿の手許に戻った。
その後日談はともかく、勘助が木檜城に出向いたことをやすが千寿に知らせようと寝室の障子を開けた時、既に千寿の姿はどこにも見当たらなかった―。
薄い夜具はまだほのかに人の温もりが残っていた。さして時間の経たぬ前に出ていったのだろうと思われた。
やすは布団の上に何かが落ちているのを見つけた。
「忘れ物―?」
よくよく気をつけて見ると、それは黒塗りの懐剣であった。蒔絵細工が施されている見事なものだ。このような物は、ついぞ触れたことはなかった。
やすは懐剣を拾い上げた。
あの娘はこれを忘れていったのではない。
わざと、置いていったのだ。この懐剣を売れば、どれだけの金になるだろう。恐らくは世話になった礼のつもりではないのか。
しかし、大人になった千寿をひとめ見て、やすは千寿を十五年前に見た少女だと見抜いたという。この時、既に勘助は病で亡くなり、やすは細々と内職で組紐を作って暮らしていた。千寿はやすの前に跪き、その皺だらけの荒れた手を押し頂いた。
―私が今日あるのは、あなたのお陰にございます。
あの時、故あって女のふりをしていたのだと話し、心からの礼を述べた千寿に、やすは、十五年前と同じようにからからと明るく笑った。
―いやだねぇ。そんなに改まって礼を言われるほど、たいしたことはしてないよ。
やすは、既に五十を越えていた。次の天下人となるのではないか―、そう囁かれるほどの武将になった千寿の姿を見て、〝立派になったねぇ〟と嬉しげに言い、はらはらと涙を流したという。
千寿は、やすに多額の金子と着物を与え、やすは、千寿が十五年前に置いていった懐剣を返した。愕くべきことに、やすはあの懐剣をずっと売りもせず、手放しもしなかったのだ。亡き母の形見はこうして、十五年ぶりに千寿の手許に戻った。
その後日談はともかく、勘助が木檜城に出向いたことをやすが千寿に知らせようと寝室の障子を開けた時、既に千寿の姿はどこにも見当たらなかった―。
薄い夜具はまだほのかに人の温もりが残っていた。さして時間の経たぬ前に出ていったのだろうと思われた。
やすは布団の上に何かが落ちているのを見つけた。
「忘れ物―?」
よくよく気をつけて見ると、それは黒塗りの懐剣であった。蒔絵細工が施されている見事なものだ。このような物は、ついぞ触れたことはなかった。
やすは懐剣を拾い上げた。
あの娘はこれを忘れていったのではない。
わざと、置いていったのだ。この懐剣を売れば、どれだけの金になるだろう。恐らくは世話になった礼のつもりではないのか。