テキストサイズ

龍虹記(りゅうこうき)~禁じられた恋~

第3章 逃亡~男の怒り~

 やすには、娘の考えていることがよく判った。
「親不孝の我が儘姫なんかじゃないよ。あたしにはよく判る。あんたは優しい、良い娘だ」
 やすは千寿の残した懐剣を胸に抱き、呟いた。
 そろそろ、夜が明けようとしている。次第に明るくなり始めた東の空の端を眺めながら、やすは、少女の無事を祈らずにはいられなかった。

 時折、何の鳥なのか、頭上でかしましい囀りが聞こえる。それ以外は、一切音のない静寂が余計に千寿の焦りをかきたてていた。
 少しでも先に、あの男から遠くにゆかなければならない。ただその一心で、千寿は先を急ぐ。
 千寿は形式だけとはいえ、嘉瑛の妻であった。たとえどんな理由があるにせよ、良人に黙って城を出たことは決定的な裏切りとなる。
 しかも、万寿姫(千寿)は、名門長戸氏の最後の生き残りである。足利将軍家の血を色濃く引く姫を、諸国の武将たちもまた我が物にせんと虎視眈々と狙っている。わずか十五歳の彼(彼女)は、次の天下人の座を狙う諸将にとっては、得難い価値を持つのだ。
 婚礼の夜、嘉瑛が千寿に告げたように、天下を取るにも大義名分が必要だ。即ち、衰退しつつある将軍家の権威を力のある武将が取り戻してやり、将軍家の後見人として天下に号令するという方法である。そして、いずれは将軍を廃し、その次の将軍に我が子をつける―そのためには、是が非でも足利将軍家の血を汲む長戸氏の姫が必要だった。
 だが、と、千寿は自嘲気味に思った。
 自分は千寿丸であって、妹万寿姫ではない。
 男の自分を万寿姫と偽り妻にすることで、当面は嘉瑛も面目を保つだろう。しかし、千寿は幾ら嘉瑛と褥を共にしようと、子を生むことなぞできようはずがないのだ。―もっとも、自分が女人であったとしても、あのような憎い敵の子を身ごもるなど真っ平ご免だけれど。
 嘉瑛から運良く逃れ得たとしても、他国の武将に捕らえられるようなことがあれば、万事休すだ。ましてや、千寿が真に妹の万寿姫ならともかく、実は兄だと露見すれば、まず生命はあるまい。長戸氏の血を引く姫には利用価値はあるが、直系の男児である千寿は、諸将にとって、ただ邪魔だけの存在なのだ。

ストーリーメニュー

TOPTOPへ