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貴女は私のお人形

第8章 だから世界の色が消えても、


* * * * * * *


 乙愛は、立ち入り禁止区域に差しかかってすぐの先の、草原の囲繞した湖を眺めていた。

 頭上を覆った黒曜石の色彩の染みた絨毯に、とりどりの花が咲いている。月明かりがそれらを仄かに引き立てていた。今にも流れ星が降り注ぐような、満天の銀が広がっている。少し欠けた白い月が、眩耀のしずくの中に滲んでいた。

 市街地と違う。夜空の眺めが不要な光に一切ぼかされていない。


 乙愛がここに立ち入ったのに、これといった動機はない。ただ、見たことのなかった風景を覗いておきたかっただけだ。

 今夜が『乙女の避暑』最後になる。



 …──ここからもっと奥へ進めば、妖精のいる沼がある、……ね。…………



 真偽がどうあれ、妖精話やチェンジリング事件に、乙愛はさして興味がない。

 こうして夜陰に一人立ち尽くしている今も、乙愛の胸は、あの美しい天使の存在だけが占拠している。妖精など取るに足りない。



 すっ、と、乙愛は深く息を吸う。


『♪夢を見た 甘く 淡い二人の情景 貴女は恋人のように私に微笑い──』


 幸福とも不安ともつかないものが許容量を超えて、今にも張り裂けそうな乙愛の胸底。海淵のように危うい場所からふっと込み上げたのは、純の歌だ。三日目の夜、スペシャルライブで、あずなのリクエストに応じた純が披露した新曲。

 ポップで可憐なメロディに、純は、痛切な少女の片想いを乗せた。ひと握りの不安と大きな希望を内包した『夢合わせ』は、純には珍しい、幸せな恋人達の歌だった。

 幸せそうな歌なのに、曲が終わると、乙愛の胸奥はざわついた。


 純は、かつて彼女がとても愛していた、乙愛にそっくりだという少女に向けて歌っていたのか。


 あの夜、聴き手の胸にいつまでも余韻を残した『夢合わせ』を歌う乙愛の目蓋に、今朝の純の姿がよぎる。



 純は、本当は、誰を想っているのだ。
 今でも彼女は、最愛だった恋人だけを愛しているのか。

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