貴女は私のお人形
第8章 だから世界の色が消えても、
「あたし、長い間、歌っていなかったんですの」
「え?」
「歌えなかった。……苦しくて」
里沙にこんな話を始めるべきではない。
頭の奥では咎めたがる自分自身を無下にして、乙愛は記憶を手繰り寄せる。
「一年くらい、歌えませんでした。素人にしてもブランクあるでしょう?」
「そんなこと──…」
「お世辞なんて良いですわ、里沙さん」
自ら腕を抱き締めて、乙愛は数秒、瞑想に耽る。
目蓋を緩めると、幻想的な絵画が視界いっぱいに広がった。たった今まで見ていた景色と変わらない。
「あたし、歌手になりたかったんです」
「それは、初耳だわ」
「過去形ですもの、話す必要もなかったんです」
「──……」
「高校生の頃、幸せな出逢いをしました。昨年、悲しい別れを体験しました。誰もが味わうような、取るに足りない出来事なんです。けれど、未熟なあたしからすれば、あれは大きな出来事だった」
恋をして、失った。
誰もが一度は味わうだろう喪失は、少女でも大人でもない乙愛に、あまりに大きな傷を残した。
いつの間にか、あの、純を好きになるきっかけとなった少女との未来が、乙愛の夢となっていた。夢ではない、目標だった。
夢を、目標を失って、乙愛は歌など歌えなかった。
「あの時、あたしは努力をしてもしていなくても、彼女とはダメだったと思います。完全な、片想い」
「──……」
「彼女は、いわゆるノンセクシャル、でした。だから、付き合ってもらえないと」
「乙愛ちゃん……」
「仕方ありませんよね?それなのにあたし、独り善がりにへこんでしまって」
「…………」
あの頃からだ。
何をしても満たされず、何にも身が入らなかった。
純を好きになるよりもっと前、仮にも歌手を目指していた。歌えば、生きた心地を取り戻せるのではないか。期待して、乙愛は何度か譜面を手にした。歌は好きだ。しかし結果は悲惨だった。