貴女は私のお人形
第8章 だから世界の色が消えても、
「声は掠れるし、喉はすぐに乾燥しちゃって。前はもっと声、出たのに、なんて焦れば焦るほど、あたしからどんどん何かがこぼれ落ちてゆきました」
「──……」
「気持ちだって、入らなかった。言葉が入ってきませんでしたわ。声を出すのに精一杯で、そのくせ、一曲もまともに歌えなかった。その内、歌うのが怖くなりました。希望を、もしかすればどこかにあるかも知れないあたしの、まだ生きてる部分が……なくなりそうで」
かつては歌って生きた心地を得ていた自分が、歌うことで存在意義を失わされる。
乙愛がそれを痛感するまで、おそらく時間の問題だった。
「ですから、苦手なわけではありません。カラオケで歌えなかったのは、里沙さんのお察しの通り、純様の前だったからでもありますけれど」
「せっかく神無月さんが、乙愛ちゃんをデュエットに誘われていたのに」
「もったいないことを、しましたわ」
「今なら受けられる?」
乙愛が里沙に頷いた、その時だ。
「いたのか、お前達!」
後方から男の声がした。聞き覚えのある粘着質な声だった。
声の主が思い出せない。
乙愛は、半ば無意識に里沙に寄り添う。
怖い──。
「おいおい、お嬢ちゃんは冷たいなぁ」
今度こそ、忘れたくても忘れられない口調だ。乙愛ははたと顔を上げる。
「あ・た・く・し、よぉ。……田中ノゾミ。否、本名は、田中希壱(きいち)だ」
もっとも乙愛の目路に現れたのは、乙愛の知る田中ノゾミとは似ても似つかない。
否、彼らには粘着質な声を差し引いても共通点がある。男にしては大きな目や、ふっくらとしたタラコ唇。しかしながら、ワイシャツにスラックスを合わせただけの中年男は、件の自宅警備員とはかけ離れていた。