
氷華~恋は駆け落ちから始まって~
第1章 始まりの夜
サヨンにとっては、まさに究極の選択であった。生まれてからというもの、父に真っ向から逆らったことなど一度もない。世間からは血も涙もないようにいわれている父であったが、サヨンには優しい父親だったのだ。
十歳で母を失ったサヨンにひたすら愛情を注ぎ、再婚もしなかった。
後者の生き方を選べば、今、この場でサヨンは父を裏切る―どころか棄てることになる。
「一か八か、これは賭です。成功するか失敗するかは、神のみぞ知るでしょう。ただし、俺にも一つだけ判ることがあります。今、ここから飛び出さなければ、お嬢さまは一生、鎖に繋がれたままだ。何一つ自分の意思で決められず、誰かの言うなりになって生きてゆく人生を生きるだけです」
その時、トンジュが殆ど聞き取れないほどの声で呟いた声は、サヨンには届かなかった。
「それに何より、俺はお嬢さまが俺じゃない、他の別の男のものになるなんて、許せないんです」
〝さあ〟と、トンジュが手を差し出した。
大きな手のひらだった。同じ若い男でも、李トクパルのように労働を知らない、ふやけた白餅のような手ではない。
無骨な、けれど、毎日を労働に明け暮れ、誠実に生きている男の手だ。
この手を取ったその瞬間から、サヨンは二度と帰れない修羅の橋を渡ることになる。
トンジュは再び故郷の地を踏むこともあるだろうとは言っているけれど、流石にその言葉を真に受けるほど愚かではない。
一旦、漢陽を出れば、二度と戻ることはないだろう。いや、父を、すべてを棄てて出てゆく自分には帰る資格などありはしないのだ。
「本当に良いの?」
見上げるサヨンに、トンジュは笑顔で頷いた。
この屋敷にいれば、少なくとも、トンジュは路頭に迷うことはない。いずれ近い中(うち)には屋敷で働く若い下女と所帯を持って、敷地内の使用人用の小屋に住むか、近くに小さな家を構えることになるだろう。
父は使用人には上下の別なく厳しかったが、その分、各々の働きぶりもよく見ていて、その労苦に報いることも忘れなかった。だから、父は世間では冷血漢で通ってはいても、屋敷内では、あまたの奉公人から慕われている。
十歳で母を失ったサヨンにひたすら愛情を注ぎ、再婚もしなかった。
後者の生き方を選べば、今、この場でサヨンは父を裏切る―どころか棄てることになる。
「一か八か、これは賭です。成功するか失敗するかは、神のみぞ知るでしょう。ただし、俺にも一つだけ判ることがあります。今、ここから飛び出さなければ、お嬢さまは一生、鎖に繋がれたままだ。何一つ自分の意思で決められず、誰かの言うなりになって生きてゆく人生を生きるだけです」
その時、トンジュが殆ど聞き取れないほどの声で呟いた声は、サヨンには届かなかった。
「それに何より、俺はお嬢さまが俺じゃない、他の別の男のものになるなんて、許せないんです」
〝さあ〟と、トンジュが手を差し出した。
大きな手のひらだった。同じ若い男でも、李トクパルのように労働を知らない、ふやけた白餅のような手ではない。
無骨な、けれど、毎日を労働に明け暮れ、誠実に生きている男の手だ。
この手を取ったその瞬間から、サヨンは二度と帰れない修羅の橋を渡ることになる。
トンジュは再び故郷の地を踏むこともあるだろうとは言っているけれど、流石にその言葉を真に受けるほど愚かではない。
一旦、漢陽を出れば、二度と戻ることはないだろう。いや、父を、すべてを棄てて出てゆく自分には帰る資格などありはしないのだ。
「本当に良いの?」
見上げるサヨンに、トンジュは笑顔で頷いた。
この屋敷にいれば、少なくとも、トンジュは路頭に迷うことはない。いずれ近い中(うち)には屋敷で働く若い下女と所帯を持って、敷地内の使用人用の小屋に住むか、近くに小さな家を構えることになるだろう。
父は使用人には上下の別なく厳しかったが、その分、各々の働きぶりもよく見ていて、その労苦に報いることも忘れなかった。だから、父は世間では冷血漢で通ってはいても、屋敷内では、あまたの奉公人から慕われている。
