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氷華~恋は駆け落ちから始まって~

第5章 彷徨(さまよ)う二つの心

 再び眼を開けると、今度は、いつまで経っても樹は揺れなかったし、人の貌にもならなかった。やはり、幻だったのだ。
 サヨンはゆっくりと周囲を見回す。
「こっちだわ」
 思わず歓びの声が上がった。左手前方が本来進むべき道筋だ。落ち着いてよくよく見れば、後ろは確かについ先刻、通ってきたばかりの道ではないか。
―人は本能的に自分が見たいと思うものを見、見たくないと思うものは見ないものだ。だから、行き詰まったときには、眼を瞑って心を平静にして、もう一度、眼を開けてごらん。その時、サヨンの眼に真実が―ものの本来あるべき姿が見えてくる。即ち、それが〝心の眼〟なんだ。
 いつか、父がそんなことを言っていた。
 やはり、父は偉大な人だ。もし無事に漢陽にまで辿り着けたなら、屋敷に戻り父に詫びよう。許してくれなくても、心から詫びるのだ。
 その時、サヨンは自分の進むべき道がほんの少し見えた気がした。自分は誰かの妻となるのではなく、商売をしたい。父を手伝い、父祖代々、大切に守り通してきたコ氏の家門とコ商団を守りたい。女の自分が大の男たちに混じって商人としてやってゆくのは並大抵ではなかろう。が、父ならば、サヨンのやりたいこと、意思を理解してくれるのではという予感があった。
 不思議なもので、希望を持つと、人は強くなれる。疲れ切っていたはずの身体と心に俄に力が漲ってきたのを感じ、サヨンは大きく深呼吸した。
 前へ、ひたすら前だけを見て進むのだ。サヨンの求めるものは他のどこでもない故郷の漢陽にあるのだから。
 自分は何て愚かな娘だったのだろう。大切なことに何故もっと早く気づかなかったのだろう。
 そのときだった。聞き慣れている―けれど、最も今、聞きたくない人の声が背後から追いかけてきた。
「流石だな。これまで誰もこの森を踏破した者はいなかったのに、お前は森の秘密をいとも容易く見抜いたか」
 その声にサヨンは大きく目を見開き、石と化したかのようにその場に縫い止められた。
「―トンジュ」
 そのひとの名が溜息のように洩れ、二月の凍てついた大気に儚く溶けて散る。

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