氷華~恋は駆け落ちから始まって~
第5章 彷徨(さまよ)う二つの心
いつになく満ち足りた気持ちで眼を覚まし、隣に手を伸ばしてみたら、家はもぬけの殻であった。またサヨンが欲しくなったので、本格的に起き出す前にもう一度、抱こうと思ったのだ。
「サヨン、サヨン?」
大声で呼ばわっても、返事はなかった。
「畜生、あいつ、あれほど一人で森に行ってはならないと言ったのに」
トンジュはサヨンが側にいたら必ず眉をひそめるであろう悪態をつきながら、全裸の身体に夜着を引っかけて家を飛び出した。
サヨンは大きな大きな息を吐いた。後ろを振り返ってみると、緑の葉をつけた巨木がそびえている。前を見ても同じ樹が並んでいる。
前後左右、どちらを見ても同じ樹が鬱蒼と生い茂っていて、同じ場所に見える。先刻から前だけを見て進んできたつもりだったが、もしかしたら、同じ場所をぐるぐると回っているだけのような気もしてきた。
一陣の風が吹き抜け、緑の葉が一斉にざわめく。サヨンは手のひらで眼をこすった。
今、手前の樹が動いたように見えたのだ。いや、手前だけではない、あそこの樹もここの樹もふらふらとまるで今にも折れそうな花が風にそよぐように揺れている。
馬鹿なと、サヨンは自分を嗤った。樹齢何百年という巨木があんな風にゆらゆらと揺れるはずがないではないか。
その中に、今度は右側の樹の幹が人の貌に見えてくる。丁度幹が顔、四方に張り出ている緑の葉を付けた枝が手足のように見えるのだ。
―何なの、あれは。
サヨンはギュッと眼を瞑り、しばらくしてから、開いてみた。
大丈夫、やはり眼の錯覚だった。だが、ほどなくまた周囲の樹はふらふらと揺れ始め、人の貌をした樹が出現した。
その時、サヨンは悟ったのだ。本来、巨木が動き、樹が人の貌をしているわけがない。その現実にあり得ないことが起きているというのは、サヨンがありもしないこと即ち幻影を見ているからだ。
多分、この森で迷った人は、この幻影に惑わされて遭難してしまうのではないか。サヨンは固く眼を瞑り、自分に言い聞かせた。
大丈夫、これは幻、所詮、現実ではない。強く何度も己れに言い聞かせ、これから自分が眼にする光景はすべて幻なのだと信じようとした。
「サヨン、サヨン?」
大声で呼ばわっても、返事はなかった。
「畜生、あいつ、あれほど一人で森に行ってはならないと言ったのに」
トンジュはサヨンが側にいたら必ず眉をひそめるであろう悪態をつきながら、全裸の身体に夜着を引っかけて家を飛び出した。
サヨンは大きな大きな息を吐いた。後ろを振り返ってみると、緑の葉をつけた巨木がそびえている。前を見ても同じ樹が並んでいる。
前後左右、どちらを見ても同じ樹が鬱蒼と生い茂っていて、同じ場所に見える。先刻から前だけを見て進んできたつもりだったが、もしかしたら、同じ場所をぐるぐると回っているだけのような気もしてきた。
一陣の風が吹き抜け、緑の葉が一斉にざわめく。サヨンは手のひらで眼をこすった。
今、手前の樹が動いたように見えたのだ。いや、手前だけではない、あそこの樹もここの樹もふらふらとまるで今にも折れそうな花が風にそよぐように揺れている。
馬鹿なと、サヨンは自分を嗤った。樹齢何百年という巨木があんな風にゆらゆらと揺れるはずがないではないか。
その中に、今度は右側の樹の幹が人の貌に見えてくる。丁度幹が顔、四方に張り出ている緑の葉を付けた枝が手足のように見えるのだ。
―何なの、あれは。
サヨンはギュッと眼を瞑り、しばらくしてから、開いてみた。
大丈夫、やはり眼の錯覚だった。だが、ほどなくまた周囲の樹はふらふらと揺れ始め、人の貌をした樹が出現した。
その時、サヨンは悟ったのだ。本来、巨木が動き、樹が人の貌をしているわけがない。その現実にあり得ないことが起きているというのは、サヨンがありもしないこと即ち幻影を見ているからだ。
多分、この森で迷った人は、この幻影に惑わされて遭難してしまうのではないか。サヨンは固く眼を瞑り、自分に言い聞かせた。
大丈夫、これは幻、所詮、現実ではない。強く何度も己れに言い聞かせ、これから自分が眼にする光景はすべて幻なのだと信じようとした。