氷華~恋は駆け落ちから始まって~
第5章 彷徨(さまよ)う二つの心
サヨンは素裸のまま立ち上がった。確か厨房に肉切り包丁があったはずだ。あれを使えば良い。思い立つとすぐに厨房まで走り、包丁を取ってきた。
これで良い。これを喉に突き立てれば、みうすぐ、すべてが終わる。サヨンはこの世のあらゆる柵から解き放たれ、トンジュに捕らえられることもない。
永遠にあの男が追いかけてこられない場所にゆくのだ。サヨンは眼を閉じた。心の中で一から三まで数えて、四で事に及ぼうと決めた。
一、二、三―。四と唱えようとしたまさにその時、入り口の扉がバタンと開いた。トンジュが弾丸のような速さで飛び込んでくる。
「馬鹿、何をしてるんだ!」
トンジュの姿を認識しサヨンは包丁を喉に突き立てようとする。トンジュはそれを力ずくで奪った。腕をねじ上げられ、サヨンの手から包丁が落ちた。
サヨンは急いで這って取りに行こうとしたが、トンジュがひとあし先にそれをさっと拾った。
サヨンは眼から涙を溢れさせながら言った。
「どうして助けたのよ。死なせてくれたら良かったのに」
身を投げ出して大泣きするサヨンをトンジュは茫然と眺めていた。その表情は昏く、瞳は虚ろで夜よりも濃い闇を映していた。
「サヨンは氷華を見た時、言ったじゃないか。死ぬのは最後の最後だと。自分は天上苑伝説の娘のように、世を儚んで自分から生命を絶ったりはしない、死んだら何もかもがおしまいだと、そう言ったはずだ。なのに、何でこんなことをする!?」
トンジュが怒鳴った。
サヨンがふっと笑った。
「何がおかしい?」
不審げな面持ちの彼に、サヨンはどこか壊れたような虚ろな表情で返した。
「死ぬよりも辛い辱めを受けるくらいなら、いっそのこと死んだ方がまだしも楽だわ」
刹那、トンジュが息を呑んだ。その端正な面をよぎったのは様々な感情であった。驚愕、躊躇、怒り、後悔、憐憫。恐らく、この中のどれ一つを取っても、彼の心のあやを正確に言い当てられはしなかっただろう。
「俺に抱かれるのが辱めだと言うのか? あんたは俺に抱かれるのがそれほどいやなのか!?」
サヨンの返事はなかった。無言はなによりの肯定だ。トンジュは拳を握りしめ、立ち上がった。
これで良い。これを喉に突き立てれば、みうすぐ、すべてが終わる。サヨンはこの世のあらゆる柵から解き放たれ、トンジュに捕らえられることもない。
永遠にあの男が追いかけてこられない場所にゆくのだ。サヨンは眼を閉じた。心の中で一から三まで数えて、四で事に及ぼうと決めた。
一、二、三―。四と唱えようとしたまさにその時、入り口の扉がバタンと開いた。トンジュが弾丸のような速さで飛び込んでくる。
「馬鹿、何をしてるんだ!」
トンジュの姿を認識しサヨンは包丁を喉に突き立てようとする。トンジュはそれを力ずくで奪った。腕をねじ上げられ、サヨンの手から包丁が落ちた。
サヨンは急いで這って取りに行こうとしたが、トンジュがひとあし先にそれをさっと拾った。
サヨンは眼から涙を溢れさせながら言った。
「どうして助けたのよ。死なせてくれたら良かったのに」
身を投げ出して大泣きするサヨンをトンジュは茫然と眺めていた。その表情は昏く、瞳は虚ろで夜よりも濃い闇を映していた。
「サヨンは氷華を見た時、言ったじゃないか。死ぬのは最後の最後だと。自分は天上苑伝説の娘のように、世を儚んで自分から生命を絶ったりはしない、死んだら何もかもがおしまいだと、そう言ったはずだ。なのに、何でこんなことをする!?」
トンジュが怒鳴った。
サヨンがふっと笑った。
「何がおかしい?」
不審げな面持ちの彼に、サヨンはどこか壊れたような虚ろな表情で返した。
「死ぬよりも辛い辱めを受けるくらいなら、いっそのこと死んだ方がまだしも楽だわ」
刹那、トンジュが息を呑んだ。その端正な面をよぎったのは様々な感情であった。驚愕、躊躇、怒り、後悔、憐憫。恐らく、この中のどれ一つを取っても、彼の心のあやを正確に言い当てられはしなかっただろう。
「俺に抱かれるのが辱めだと言うのか? あんたは俺に抱かれるのがそれほどいやなのか!?」
サヨンの返事はなかった。無言はなによりの肯定だ。トンジュは拳を握りしめ、立ち上がった。