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氷華~恋は駆け落ちから始まって~

第5章 彷徨(さまよ)う二つの心

「さっさと何か着ろ。真冬に素裸のままでは風邪を引く」
 素っ気ないひと言と共に扉は静かに閉まり、トンジュは外に出ていった。しばらく経つと、再び薪を割る規則正しい音が聞こえてきた。
 扉一つを隔てたすぐ側にいながら、今、トンジュとサヨンの間は都とここよりも離れている。
 それで良いはずだった。トンジュはサヨンを騙し家から連れ出して身体を奪った。嫌いな憎むべき男と二度と修復不能な関係になったからといって、何故、こんなに心が沈むのか。
 むしろ、これで嫌な想いをしなくて済むのだから、万歳をして歓ぶべきなのに。
 固く閉じられたままの扉が二度と開かないような気がして、サヨンはひっそりと涙を流した。自分で自分の心が判らなくなっていた。

 その日を境に、トンジュはサヨンに一切触れようとはしなくなった。サヨンは自在に森を抜けて麓まで行き来できるようになった。
 暦も三月に変わったばかりのある日、サヨンは麓まで降りた。山を下りて最も近い場所にあるのは山茶花(さざんか)村という小さな村である。冬には村中を山茶花が埋め尽くし、遠くは都の風流人がわざわざ訪ねてくるというほどの隠れた名所として知られている。
 山茶花村はまた玻璃(はり)湖という湖に隣接しており、この湖から採れる様々な恵みによって、村は生計を立てていた。玻璃湖は汽水湖である。つまり、淡水と海水の両方が流れているため、淡水で採れる真珠や海水で育つアワビ、昆布など実に豊富な種類のものが採れる。痩せ地であるため農業には適さず、玻璃湖で行われる漁に頼って暮らしているといって良かった。
 サヨンは普段使う水は、近くの池から汲んだもので賄っていた。小さな池だが、生活に使う水に困ることはない。
 その日、サヨンが山を下りたのは、麓の川で髪を洗うためだった。池で髪を洗っても良かったのだけれど、より澄んだきれいな水で洗いたかったのだ。
 トンジュはサヨンがいつも麓に行くことを渋ったが、どうしてもと頼むと、渋々許してくれた。彼はサヨンには黙っていたが、サヨンをいつも不憫に思っていたのだ。漢陽でコ商団のお嬢さまとして暮らしていた頃は、何不自由ない贅沢な暮らしを送っていたサヨンである。

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