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氷華~恋は駆け落ちから始まって~

第5章 彷徨(さまよ)う二つの心

 サヨンは口の中の詰め物を投げ捨て、慌ててトンジュに取りすがった。
「トンジュ、もう止めて。これ以上、殴ったら、死んでしまうわ」
「こんな下衆野郎は、死んだ方が世のためになる」
 トンジュが素っ気なく言った。
 サヨンはトンジュの背後から両手を回して彼を抱きしめた。
「私はあなたに人殺しにはなって欲しくないの。それに、民が両班を殺せば、死罪になるわ。こんなろくでなしのために、あなたが死ぬなんて耐えられない」
 トンジュの動きが止まった。
「ね、だから、もう止めて。こんなことで、あなたの手を血に染める必要はないわ」
「だが、こいつはサヨンを犯そうとしたんだぞ?」
「私なら大丈夫だから。あなたが早く来てくれたから、何ともなかったの」
「本当か」
 念を押され、サヨンは幾度も頷いた。
 トンジュは自らを落ち着かせるように大きな息を吐き、勇民から手を放した。
「二度と俺の女に手を出すな。今度また同じことをしでかしたら、そのときは生命はないものと思え」
 トンジュは仁王立ちになって、唾棄するように言い棄てた。
 岩に大の字に転がった勇民は恐怖のあまり、血走った眼をカッと見開き、震えていた。サヨンですら気の毒になったほど、顔中がアザだらけになっている。唇と鼻から血が流れていた。
「行くぞ」
 トンジュはサヨンの手を引くと、黙って歩き出した。
 しばらく歩いたところでトンジュは立ち止まった。自分の上着を脱いで、サヨンに羽織らせてやる。
「危ないところだった」
 トンジュがぶっきらぼうに言う。
 サヨンはトンジュを真っすぐに見た。
「トンジュが来てくれなかったら、どうなったか判らない。本当にありがとう」
「礼を言われるほどのことじゃない。何だか妙に心が波立って、不安で堪らなくなったんだ。虫が知らせたのかもしれない。後を追いかけてきて良かったよ」
 照れたように頬を少し紅くし、トンジュは無愛想な声で応えた。

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