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氷華~恋は駆け落ちから始まって~

第5章 彷徨(さまよ)う二つの心

「本当に何もなかったんだな」
 念押しされ、コクコクと頷く。
 トンジュの愁いに満ちた顔に漸く安堵の表情が浮かんだ。
 トンジュがサヨンを引き寄せる。その抱擁にはむろん性的な匂いは全く感じられなかったし、トンジュがサヨンをこうやって抱きしめるのは実に久しぶりであった。半月ほど前から、彼はサヨンに全く近づかなくなっていたから。
 トンジュはサヨンの髪に頬をすり寄せ、二度と離さないと言わんばかりに強く抱いた。
 サヨンは顔を上げ、彼の愁いを帯びたまなざしを受け止めて、それ以上、何も言えなくなった。
「良かった。もしサヨンの身に危害を加えていたら、あいつらを纏めて漢江(ハンガン)にぶち込んで、鰐のえさにしてやる」
 本気でやりそうなトンジュに、サヨンは笑った。
「ねえ、余計なことかもしれないけど、漢江に鰐なんているの?」
「さあな、俺も聞いたことがない。鰐でも鮫でも良いんだよ」
 ますます赤らんだトンジュを見て、サヨンは明るい笑い声を上げた。
「サヨンの笑ったところ、久しぶりに見たよ。っていうか、俺と一緒に暮らし始めてから、笑顔なんて、ろくに見たことがない。漢陽の屋敷にいた頃は、いつも太陽みたいに笑っていたのに」
 トンジュは首を振った。
「やっぱり、お屋敷を連れ出したことは、お前にとっては良くなかったのかもしれないな」
「トンジュ?」
「サヨンは知らなかっただろうが、俺は毎日、お屋敷中、お前の姿を探してたんだぜ。仕事が立て込んでるから、追いかけ回してる暇はないが、何をしていても、どこか近くをお嬢さまが通りかからないかとばかり考えてた」
 トンジュが溜息をつく。
「考えてみたら、俺が大行首さまに難しい文字を教えて頂いたのも、サヨンにふさわしい男になりたいと思ったからだろうな。でも、俺の見た夢は結局、分不相応だった。幾ら立派になろうとしても、住む世界は変えられない。近頃、そんなことを考えるようになったよ」
 そのときのトンジュの声が何故かひどく淋しげに聞こえたのだった。

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