
氷華~恋は駆け落ちから始まって~
第5章 彷徨(さまよ)う二つの心
サヨンは眼を瞠った。トンジュの逞しい身体がすぐ眼前にあった。うっすらと毛に覆われた均整の取れた身体から、かすかな香りがする。それは山の森を吹き渡る風の匂い、或いは冬なおたっぷりと青葉を茂らせる大木の香りであった。
知らぬ間に、サヨンは眼を閉じて、うっとりと男の香りに浸っていた。
「サヨン? どうした、やっぱり変だぞ?」
トンジュの声が耳を打ち、サヨンは眼を開いた。
「あ、ごめんなさい。本当に何でもないの、気にしないで」
サヨンは慌てて逃げるようにその場を離れた。これ以上、トンジュの剥き出しになった逞しい身体をまともに見ていられなかった。
夕飯をいつもより早く終え、サヨンは部屋の隅で針を動かしていた。先に繕い物を済ませて、今は気散じに刺繍をしている。
三月の初め、トンジュは町に薬草を売りにいった。そのときに知り合いの絹店の主人から、半端物の絹布を格安で譲って貰ってきたのだ。頼んでいた刺繍道具もちゃんと買ってきてくれた。
―こんな小さな端切れでは到底、服なんて縫えないだろうが、袋でも何か縫って使うと良い。
そう言って渡してくれたのだ。
サヨンの側には繕い終えたばかりのトンジュのパジとチョゴリが一枚ずつ畳んで置いてある。
巾着は簡単にできるので、数個纏めて作った。刺繍はそう手の込んだものではないが、できるだけ華やかに見えるものをと思い、四季それぞれの花を挿すことにした。春の梅、夏の紫陽花、秋の紅葉、冬の椿。これは多少日数はかかるだろうけれど、刺繍をするのは久しぶりなので胸が躍る。漢陽にいた頃は、一日の大半を刺繍ばかりして過ごしていたのだ。
まずは春の梅だ。これは丁度、今の季節にふさわしい図柄である。が、実のところ、作業は全くと言って良いほど捗らなかった。というのも、サヨンは針で指を突いてばかりで、大切な巾着に危うく血を付けてしまうところだった。
サヨンは自分の気持ちを持て余していた。若い両班の男に心ならずも触れられたのは、まだ朝の出来事だ。思い出してしまうのは、そのときのことだった。
知らぬ間に、サヨンは眼を閉じて、うっとりと男の香りに浸っていた。
「サヨン? どうした、やっぱり変だぞ?」
トンジュの声が耳を打ち、サヨンは眼を開いた。
「あ、ごめんなさい。本当に何でもないの、気にしないで」
サヨンは慌てて逃げるようにその場を離れた。これ以上、トンジュの剥き出しになった逞しい身体をまともに見ていられなかった。
夕飯をいつもより早く終え、サヨンは部屋の隅で針を動かしていた。先に繕い物を済ませて、今は気散じに刺繍をしている。
三月の初め、トンジュは町に薬草を売りにいった。そのときに知り合いの絹店の主人から、半端物の絹布を格安で譲って貰ってきたのだ。頼んでいた刺繍道具もちゃんと買ってきてくれた。
―こんな小さな端切れでは到底、服なんて縫えないだろうが、袋でも何か縫って使うと良い。
そう言って渡してくれたのだ。
サヨンの側には繕い終えたばかりのトンジュのパジとチョゴリが一枚ずつ畳んで置いてある。
巾着は簡単にできるので、数個纏めて作った。刺繍はそう手の込んだものではないが、できるだけ華やかに見えるものをと思い、四季それぞれの花を挿すことにした。春の梅、夏の紫陽花、秋の紅葉、冬の椿。これは多少日数はかかるだろうけれど、刺繍をするのは久しぶりなので胸が躍る。漢陽にいた頃は、一日の大半を刺繍ばかりして過ごしていたのだ。
まずは春の梅だ。これは丁度、今の季節にふさわしい図柄である。が、実のところ、作業は全くと言って良いほど捗らなかった。というのも、サヨンは針で指を突いてばかりで、大切な巾着に危うく血を付けてしまうところだった。
サヨンは自分の気持ちを持て余していた。若い両班の男に心ならずも触れられたのは、まだ朝の出来事だ。思い出してしまうのは、そのときのことだった。
