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氷華~恋は駆け落ちから始まって~

第5章 彷徨(さまよ)う二つの心

その場所から二つ、三つの店を隔てた履き物屋と筆屋では、履き物屋の主人と筆屋の女房が商売もそっちのけで口角泡飛ばして話し込んでいる。サヨンは筆屋の前で足を止め、しばし迷った。巾着が思ったよりも高く売れたので、トンジュに良質な筆を買い求めて帰りたかったのだ。
 が、今日はあちこちに寄ったため、時間も予定よりは遅れている。山で一人待っているトンジュのことを考えると、一刻でも早く帰りたい。筆をゆっくりと選ぶのは、次回に延ばすことにした。
 当座に必要な食糧も買い揃え、念願の巾着も売れた。後は山に帰るだけだ。サヨンは食料品を詰め込んだ袋をよっこらしょと背負い、歩き出した。大荷物だから時間はかかるだろうが、今から帰途につけば、陽暮れ刻にはトンジュの待つ我が家に帰れるだろう。
 我が家、サヨンは思った。トンジュと共に都を出てから、何度も彼から逃げようとしたり、彼の一途な恋情を拒んだ。だが、自分はやはり、トンジュを愛している。
 いつのまにか、あの男はサヨンの心に入り込み、しっかりとその存在を刻みつけていたのだ。最早、サヨンの帰るべき場所は山の上のあの小さな家―トンジュの側にしかなかった。
 目抜き通りを外れると、周囲の風景は打って変わった。路地裏が伸び、小さなみずぼらしい家がぽつぽつと並んでいる。トンジュの建てた家の方がまだ見られるほど粗末な住まいである。
 路地裏に脚を踏み入れた刹那、サヨンは急に背後から羽交い締めにされた。
―なに、一体、どうしたの?
 烈しく暴れたが、拘束しようとする相手は男、しかもかなりの巨漢らしく、サヨンが少々刃向かったくらいではビクともしない。
 男はこういったことには手慣れているのか、サヨンの口に猿轡をかませると、手足を縛り上げ大きな袋に放り込んだ。袋ごと担ぎ上げられ、荷馬車に乗せられたようだ。
 砂利道を通る車輪の音と揺れがサヨンの置かれている状況を伝えてくれた。
 袋から出されたのは、それから半刻くらい経てからのことだ。すぐに猿轡は取られたが、手足の縄は外して貰えなかった。
 サヨンが連れてゆかれたのは、どこかのお屋敷だった。荷馬車に乗っていた間はほんのわずかだ。時間から考えて、まだ町の中にいると思って間違いはないだろう。

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