氷華~恋は駆け落ちから始まって~
第5章 彷徨(さまよ)う二つの心
それが腹立たしくてならない。
更にそれから幾ばくかの刻を経た頃になって外側から厳重にかけてある鍵が開く音が聞こえてきたかと思うと、今度は先刻の女中が再び顔を覗かせた。
「おや、何も食べてないじゃないかい」
女中は大袈裟に愕いた。
「それにしても、うちの若(トル)さま(ニム)にも困ったものだよねえ。女好きだといったって、人間なんだから、節操ってものくらい持ち合わせてると思うのに、どうやら、奥さまのお腹から出てくるときに、それをどこかに落っことしてきちまったみたいだ」
どうも、木彫り職人の女房といい、この女中といい、この町にはお喋り好きの女が多いらしい。
女中は、サヨンの視線にやっと気づいた様子だ。
「あら、いやだ。あたしったら」
女中がわざとらしい咳払いでごまかした。
「おばさん、ここの若さまって、そんなに悪さばかりしてるんですか?」
訊ねると、女中は訳知り顔で首を振った。
「さ、さあね。お仕えするお屋敷の内輪のあれこれを無闇に喋るもんじゃないって女中頭さまがよく言ってるから」
とはいえ、彼女の顔には〝本当は喋りたい〟と書いてある。そこで、サヨンは作戦を変更することにした。
その時、運良くというべきか、向こうから大きな声が響いてきた。
「萬娍(マンソン)、萬娍、」
「はーい、今、行きます」
マンソンと呼ばれた女中は露骨に顔をしかめた。
「全く、人使いが荒いったら、ありゃしない。ここのお屋敷は若さまだけじゃなく、女中頭まで常識ってものがないんだから、やってられやしない」
今だ、と、サヨンは咄嗟に両手で顔を覆った。しくしくと世にも哀しげな声で泣く。
「あんた、何? いきなりどうしたのよ」
人の好さそうな女中を騙すのは気が引けるが、この際、やむを得ない。
「おばさん、私はこんなところにいつまでもいるわけにはゆかないの。家には病気で寝たきりのお母さんとまだ小さな妹たちがいるから、私が早く帰ってやらないと、家族が飢え死にしてしまう」
「まぁ、何てこった。若さまも酷いことをなさるもんだ。よりにもよって、そんな家の娘を攫ってくるなんて」
女中は早くもサヨンの偽身の上話にほだされたようで、眼を赤くしている。
更にそれから幾ばくかの刻を経た頃になって外側から厳重にかけてある鍵が開く音が聞こえてきたかと思うと、今度は先刻の女中が再び顔を覗かせた。
「おや、何も食べてないじゃないかい」
女中は大袈裟に愕いた。
「それにしても、うちの若(トル)さま(ニム)にも困ったものだよねえ。女好きだといったって、人間なんだから、節操ってものくらい持ち合わせてると思うのに、どうやら、奥さまのお腹から出てくるときに、それをどこかに落っことしてきちまったみたいだ」
どうも、木彫り職人の女房といい、この女中といい、この町にはお喋り好きの女が多いらしい。
女中は、サヨンの視線にやっと気づいた様子だ。
「あら、いやだ。あたしったら」
女中がわざとらしい咳払いでごまかした。
「おばさん、ここの若さまって、そんなに悪さばかりしてるんですか?」
訊ねると、女中は訳知り顔で首を振った。
「さ、さあね。お仕えするお屋敷の内輪のあれこれを無闇に喋るもんじゃないって女中頭さまがよく言ってるから」
とはいえ、彼女の顔には〝本当は喋りたい〟と書いてある。そこで、サヨンは作戦を変更することにした。
その時、運良くというべきか、向こうから大きな声が響いてきた。
「萬娍(マンソン)、萬娍、」
「はーい、今、行きます」
マンソンと呼ばれた女中は露骨に顔をしかめた。
「全く、人使いが荒いったら、ありゃしない。ここのお屋敷は若さまだけじゃなく、女中頭まで常識ってものがないんだから、やってられやしない」
今だ、と、サヨンは咄嗟に両手で顔を覆った。しくしくと世にも哀しげな声で泣く。
「あんた、何? いきなりどうしたのよ」
人の好さそうな女中を騙すのは気が引けるが、この際、やむを得ない。
「おばさん、私はこんなところにいつまでもいるわけにはゆかないの。家には病気で寝たきりのお母さんとまだ小さな妹たちがいるから、私が早く帰ってやらないと、家族が飢え死にしてしまう」
「まぁ、何てこった。若さまも酷いことをなさるもんだ。よりにもよって、そんな家の娘を攫ってくるなんて」
女中は早くもサヨンの偽身の上話にほだされたようで、眼を赤くしている。