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氷華~恋は駆け落ちから始まって~

第1章 始まりの夜

 が、一方のトンジュはといえば、実に淡々とした態度で、あっさりと手を離したし、これまでにサヨンが知る彼と何一つ変わらない。
 恐らく、トンジュにとっては自分は女には見えないのだろう。それも無理はない。子どものときから互いを知っていて、あまつさえ、サヨンは彼には、どこまで行っても主家の〝お嬢さま〟なのだ。
 なりゆきで行動を共にすることにはなったけれど、彼が自分を異性として殊更、意識しているとは思えなかった。まるで、自分一人だけがトンジュの一挙手一投足に振り回されているようで、少し惨めだった。
「どうしました?」
 屋敷を出てまだ半刻余りしか経っていないのに、早くもサヨンの息は上がり、足取りは鉛のように重かった。
 普段からろくに歩いた試しがないのだ。要するに、意思とは裏腹に身体がついてゆかないのである。
 サヨンは眉を寄せ、かぶりを振った。
「脚が少し」
 サヨンはしきりに悲鳴を上げる右の脹ら脛を撫でながら訴えた。
「痛むのですか?」
 数歩先を歩いていたトンジュが引き返してくる。もうかなり前から、サヨンはトンジュの速さについてゆけず、遅れがちになっていた。トンジュの身になって考えれば、ここは少しでも遠くまで進んでおきたいところだろう。
 サヨンとトンジュの二人がほぼ同時にいなくなったことが知れれば、当然ながら、二人の関係が取り沙汰されるに相違ない。
 サヨンが事前に心配したとおり、家僕が世間知らずの主家の娘を誑かして逃げた―と誰もが思い込むはずだ。
 そうなれば、時を経ずして追っ手が放たれる。何しろ明日に婚約式を控えた娘の失踪だ。父が血眼になってサヨンを探すであろうことは容易に想像がついた。下手をすれば、今夜の中には役所に届けが出され、役人までもが二人の捜索に乗り出すかもしれない。
 屋敷を出る前、トンジュはこの逃避行を一か八かの賭だと言ったけれど、確かにそのとおりなのだった。トンジュは真の自由を得るために、自らの生命を、すべてを賭けたのだ。

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