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氷華~恋は駆け落ちから始まって~

第5章 彷徨(さまよ)う二つの心

「客間には、どんな方がいらっしゃるの?」
 無邪気に訊ねれば、声をなおいっそう潜めて〝義(ウィ)承(スン)大君(テーグン)さま(マーマ)だよ〟と教えてくれた。
 義承大君というのは現国王の実弟で、町の外れに邸宅を構えている。都でも名の通った風流人で政治よりも書画や管弦に親しみ、自身も笛の名手として知られていた。かねてから田舎で自然を愛でながら暮らすのが夢で、今から数年前、兄王に頼み込んで、この鄙びた地方都市に移り住んだのだそうだ。
「義承大君さまは国王さまの弟君で、若奥さまさまは王妃さまの妹君だからね。だから、今夜もお祝いにお見えになってるんだ」
 と、向こうから再び呼び声が聞こえた。今度は先刻より更に苛立しげに焦れている。
「マンソン、マンソン! この猫の手も借りたいほど忙しいってときに、どこで油を売ってるんだろうね。全く、肝心のときに役立たずなんだから」
 女中がしかめ面で肩をすくめた。
「ああ、いやだ、いやだ。それじゃ、頼むよ」
 彼女は慌てて〝はい、はーい〟と返事しながら駆けていった。
 この人の良い女中は、あまり頭の回転が良くないようだ。サヨンを閉じ込めた部屋から出して、逃げるとは考えないのだろうか。
 もちろん、サヨンは逃げるつもりだ。〝ごめんなさい〟と心で詫びながら、サヨンは客間を目指した。ここで逃げた方が利口なのは判っていたけれど、せめて一つくらいは約束を守りたかった。
 教えられたとおりに廊下を真っすぐ進んでかなり歩くと、扉越しに明かりが洩れている室があった。
「―大君、時は満ちました。いよいよ決起するときが来たのです」
「そうは申しても、兄上(ヒヨンニム)が私を疑っておいでだというこのときに決起などしても、果たしてうまくゆくだろうか」
「国王さまが疑惑をお持ちだからこそ、今なのです」
「と申すと?」
「計画を早めるのですよ。目下、三日後の吉日を考えております」
「さりながら、戦支度が間に合わないのではないか? 予定では三ヶ月後のはずだったのだぞ?」
「お任せ下さい。武器はすべて整っておりますゆえ、いつでもご用意できる状態にあります。このようなこともあろうかと準備を急がせました」

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