
氷華~恋は駆け落ちから始まって~
第1章 始まりの夜
しかし、あのときはサヨンの方が呆気ないと思うほどあっさりと手を放したし、手をほんの束の間だけ繋ぐのと、脚を執拗に触れられるのとは訳が違う。
流石に〝馴れ馴れしく〟という形容は控えた。今のサヨンは既に〝コ家のお嬢さま〟ではない。身分も名前も何もかもを棄てて家を出てきたからには、今やトンジュとの間に身分の隔たりはない。
むしろ、トンジュがいてくれなければ、サヨンは屋敷を出たら即刻、一人では何もできないほどの世間知らずなのだ。
「でも、お嬢さまは近々、李家に嫁ぐはずだったんですよ? 嫁ぐということが何を意味するかは知っていたでしょうに」
話が変な方向に向かい始め、サヨンは頬を赤らめて狼狽えた。
「そんな話は止めましょう」
「どうして? お嬢さまはいずれ俺に―」
言いかけ、トンジュは首を振った。
「そうですね。今はまだ呑気にこんな話をしている場合ではない。そろそろ行きましょうか。そうそうのんびりしていられませんので」
トンジュの後について歩きながら、サヨンは俄に不安がどす黒く胸の内を染めてゆくのを感じていた。
屋敷を出る間際のやりとりを思い出すにつけ、トンジュが相当の切れ者だと改めて思わずにはいられない。屋敷で見せていた穏やかで寡黙な若者といった印象とは全く異なる面を持っている―、それだけは事実のようであった。
全く知らない別人といるような気がして、サヨンは知らず恐怖が背筋を這い上ってくるような想いに囚われた。不思議なもので、そう思って見ていると、先を行くトンジュの背中が見知らぬ怖い男のもののように思えてならなかった。
いっそのこと、このまま逃げれば。
サヨンの脳裏をそんな想いがかすめた。
むろん、今更おめおめと屋敷に戻れるはずもないし、そのつもりはないけれど、この男とこのままずっと一緒にいるのは良くないような気がしたのだ。
トンジュにはどこか得体の知れないところがある。静まり返った沼が淀み、底が知れないように、腹の底が全く見えない。この男の手に一度絡め取られてしまえば、沼底まで沈み込み永遠に浮き上がれないような予感さえしてくる。
このまま逃げてしまおうと、そっと踵を返したその時。
流石に〝馴れ馴れしく〟という形容は控えた。今のサヨンは既に〝コ家のお嬢さま〟ではない。身分も名前も何もかもを棄てて家を出てきたからには、今やトンジュとの間に身分の隔たりはない。
むしろ、トンジュがいてくれなければ、サヨンは屋敷を出たら即刻、一人では何もできないほどの世間知らずなのだ。
「でも、お嬢さまは近々、李家に嫁ぐはずだったんですよ? 嫁ぐということが何を意味するかは知っていたでしょうに」
話が変な方向に向かい始め、サヨンは頬を赤らめて狼狽えた。
「そんな話は止めましょう」
「どうして? お嬢さまはいずれ俺に―」
言いかけ、トンジュは首を振った。
「そうですね。今はまだ呑気にこんな話をしている場合ではない。そろそろ行きましょうか。そうそうのんびりしていられませんので」
トンジュの後について歩きながら、サヨンは俄に不安がどす黒く胸の内を染めてゆくのを感じていた。
屋敷を出る間際のやりとりを思い出すにつけ、トンジュが相当の切れ者だと改めて思わずにはいられない。屋敷で見せていた穏やかで寡黙な若者といった印象とは全く異なる面を持っている―、それだけは事実のようであった。
全く知らない別人といるような気がして、サヨンは知らず恐怖が背筋を這い上ってくるような想いに囚われた。不思議なもので、そう思って見ていると、先を行くトンジュの背中が見知らぬ怖い男のもののように思えてならなかった。
いっそのこと、このまま逃げれば。
サヨンの脳裏をそんな想いがかすめた。
むろん、今更おめおめと屋敷に戻れるはずもないし、そのつもりはないけれど、この男とこのままずっと一緒にいるのは良くないような気がしたのだ。
トンジュにはどこか得体の知れないところがある。静まり返った沼が淀み、底が知れないように、腹の底が全く見えない。この男の手に一度絡め取られてしまえば、沼底まで沈み込み永遠に浮き上がれないような予感さえしてくる。
このまま逃げてしまおうと、そっと踵を返したその時。
