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氷華~恋は駆け落ちから始まって~

第1章 始まりの夜

 すぐ後ろでトンジュの声が響いた。
「どうかしましたか?」
「あ―」
 サヨンは蒼褪めて振り返った。
 トンジュがうっすらと笑みを湛えて佇んでいる。
「一人でどこかへゆくつもりだったのですね」
 サヨンは小刻みに身を震わせた。
「このままあなたと行っても、迷惑になるだけだし、ここからは私一人で行こうと思うの。ここまで一緒に来て下さって、本当に感謝しています」
「お嬢さん、俺は確かにお屋敷を出て、自由の身になりたいと言いました。あなたの心に負担をかけないために、お嬢さんのせいじゃないともね。でも、それは、はっきり言えば、お嬢さんのためにしたことでもあったんですよ? すべてを棄てた俺に、あなたはそんなことが言えるんですか? ここからは俺一人で行けと?」
「それなら、都を出たところで別々に行動してはどうかしら」
 フとトンジュが鼻で嗤った。その整った面には人を見下したような笑いが浮かんでいる。初めて見る別人のような表情に、サヨンは衝撃を隠せない。
「屋敷を一歩出ただけで途方に暮れるような世間知らずのお嬢さまが都を出て一人になって、それからどうなるんです? 都の中でも何もできないのに、都を出て一人でやっていくだって? 笑わせる」
 あまりの酷(ひど)い言い草に、涙が溢れそうになった。ろくにトンジュという男を知りもしないでついてきたことは、あまりにも無謀すぎた。サヨンは、痛切に後悔を覚え始めた。
「行きますよ」
 トンジュがサヨンの手首を掴む。ごく何気なく握っているだけのようなのに、もの凄い力だ。
 サヨンは思わず抗議するような眼でトンジュを見たが、彼は何も言わず素知らぬ顔でサヨンの手を握りしめたまま歩いてゆく。
 それでも脚の痛みを訴える彼女を気遣ってか、これまでほどの速さではなく何とかついて歩くことはできた。
 手首に込められた力は、トンジュがサヨンの逃亡を恐れているかのようでもあった。途中でサヨンは何度か手の力を緩めてくれるように頼んでみたけれど、トンジュは取り合ってもくれなかった。

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