
氷華~恋は駆け落ちから始まって~
第1章 始まりの夜
サヨンの迷いを敏感に嗅ぎ取ったのだろう。彼女の迷いが伝わったかのように、それからのトンジュは始終むっつりと不機嫌だった。しまいには、痛めたはずの脚よりもトンジュにしっかりと握りしめられた手首の方が痛みを憶え始めたほどであった。
トンジュは途中で、場末の酒場に立ち寄った。どうやら、その見世では常連らしい。
トンジュが〝おばさん(アジモニ)〟と親しげに呼ぶ見世の女将は年配でいえば、四十前後に見える。
ここでもサヨンは愕きを新たにしていた。宣(ソン)・ソンジュはコ氏の屋敷においても真面目な若者として通っていた。口数は少ないが、特に無愛想というわけでもない。むしろ、黙っていても、その穏やかで思慮深い人柄が端正な風貌に滲み出て、対する相手に好印象を与える男だった。
人あしらいも上手く、働き者で気配り上手。しかも美男ときているから、屋敷内の若い侍女たちには絶大な人気を得ていた。
―トンジュは今時の若い者に似合わず、生真面目だねぇ。
というのが、年配の使用人たちの彼に対する見方であったのだ。
若いのに酒場にもゆかず、恋人どころか、浮いた話の一つもない。身持ちが堅いのは女たちには好意的に見られていたけれど、同性の使用人たちは皆、寄ると触ると、〝あいつの糞真面目なところは、おかしい〟と、トンジュが男として身体的欠陥があるのではないかという下卑た噂までが真しやかに囁かれてさえいたのだ。
そこは、いかにも町外れの場末の酒屋といった風情が漂っていた。もちろん、サヨンは、このような見世に脚を踏み入れるのは生まれて初めてのことである。
だが、サヨンはこの類の見世に特に嫌悪感を感じはしなかった。
「おばさん、この娘(こ)に何か食べさせてやってくれないかな」
トンジュは気さくに中年の女将に話しかける。見たところ、サヨンの眼には女将とトンジュの関係は客と酒場の女将というよりは母と子に近いように見えた。
「あいよ、お安いご用だ」
女将は気前よく承諾し、奥へ引っ込んだかと思うと、ほどなく湯気の立つ器を小卓に乗せて運んできた。
トンジュは途中で、場末の酒場に立ち寄った。どうやら、その見世では常連らしい。
トンジュが〝おばさん(アジモニ)〟と親しげに呼ぶ見世の女将は年配でいえば、四十前後に見える。
ここでもサヨンは愕きを新たにしていた。宣(ソン)・ソンジュはコ氏の屋敷においても真面目な若者として通っていた。口数は少ないが、特に無愛想というわけでもない。むしろ、黙っていても、その穏やかで思慮深い人柄が端正な風貌に滲み出て、対する相手に好印象を与える男だった。
人あしらいも上手く、働き者で気配り上手。しかも美男ときているから、屋敷内の若い侍女たちには絶大な人気を得ていた。
―トンジュは今時の若い者に似合わず、生真面目だねぇ。
というのが、年配の使用人たちの彼に対する見方であったのだ。
若いのに酒場にもゆかず、恋人どころか、浮いた話の一つもない。身持ちが堅いのは女たちには好意的に見られていたけれど、同性の使用人たちは皆、寄ると触ると、〝あいつの糞真面目なところは、おかしい〟と、トンジュが男として身体的欠陥があるのではないかという下卑た噂までが真しやかに囁かれてさえいたのだ。
そこは、いかにも町外れの場末の酒屋といった風情が漂っていた。もちろん、サヨンは、このような見世に脚を踏み入れるのは生まれて初めてのことである。
だが、サヨンはこの類の見世に特に嫌悪感を感じはしなかった。
「おばさん、この娘(こ)に何か食べさせてやってくれないかな」
トンジュは気さくに中年の女将に話しかける。見たところ、サヨンの眼には女将とトンジュの関係は客と酒場の女将というよりは母と子に近いように見えた。
「あいよ、お安いご用だ」
女将は気前よく承諾し、奥へ引っ込んだかと思うと、ほどなく湯気の立つ器を小卓に乗せて運んできた。
