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氷華~恋は駆け落ちから始まって~

第1章 始まりの夜

 二人は戸外に設(しつら)えられた客席ではなく、座敷に上がっていた。座敷といっても、ちゃんとした一戸建ての建物で、要するに離れのように独立して建てられている。
 通常、客は外の筵敷きの台に思い思いに陣取って酒食を愉しむが、少し上客になると、このような座敷に上がることもできた。もっとも、場末の酒場に通ってくるような客は大抵がその日暮らしの男たちばかりで、上客などと呼べる暮らしを営んでいる者などいはしない。
 酒場は妓房(キバン)(遊廓)とは異なるゆえ、酒の相手をする妓生(キーセン)(遊女)はいない。早い話が酒場の看板を掲げてはいるものの、酒も出すし、食事も出す大衆食堂のようなものだ。実際、この見世は、昼間などは酒を飲む客よりも昼飯を食べにきた客の方が多いくらいなのだ。
「ありがとう(カムサ)ござい(ハム)ます(ニダ)」
 女将がドンと音を立てて小卓を眼の前に置くと、サヨンは丁寧に頭を下げた。
「あらまあ、何て礼儀正しい娘だろ。ふうん、着ているものもこう言っちゃ何だけど、こんなうらぶれた酒場には不似合いだしねぇ」
 女将はサヨンをしげしげと眺めながら、品定めするように言った。
「ほら、このチマチョゴリなんて絹だよ、絹。良いねぇ、あたしもこんな上物を一生に一度で良いから着てみたいもんだ」
 心底から羨ましげに言うのに、トンジュが苦笑した。
「何を寝ぼけたことを言ってるんだよ。十五、六の小娘じゃあるまいし、おばさんがこんな派手な服を着ても猪が玉(ぎよく)の首飾りをしてるようなもんだよ」
「まっ、この子ったら。言うにことかいて、猪だって? もう少しマシなたとえはできないもんかね。口の滅法悪いところは、ちっとも変わりゃしないんだからねぇ」
 しかし、口調とは裏腹に、女将はどこか嬉しげで、むしろ、このやりとりを愉しんでいるようだ。
 二人の丁々発止の会話に眼を瞠っていると、傍らからトンジュが言った。
「こう見えても、ここの女将のサムゲタンは美味いんです。冷めない中に食べて下さい」
 サヨンは頷いた。
「いただきます」
 またしても丁重に言うと、女将が真顔になった。

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