テキストサイズ

氷華~恋は駆け落ちから始まって~

第1章 始まりの夜

「お嬢さんもよくお聞き。あんたが幾らトンジュを慕っていようと、あんたたち二人は住む世界が違いすぎる。恋に目がくらんでる中はまだ良いかもしれないが、直に互いに愛想が尽きて我慢ならなくなるだろう。親や家まで棄ててお屋敷を出てきたあんたには酷な言い様かもしれないが、いずれ、トンジュは世間知らずのあんたを厄介者扱いするようになる。そうなれば、あんたは身一つで棄てられちまう。後は墜ちるところまで墜ちるだけさ。男に棄てられた女が辿る末路なんて、知れてるよ? あんた、働いたことなんてろくにないだろ? そんな女にできることと言やア、自分の身体を切り売りするくらいのもんだ」
 あまりの言い様に、サヨンは固まっていた。
 だが、女将の言い分は何も間違ってはいない。それが現実なのだから。
 サヨンのような苦労知らずの娘が世間に一人で放り出されて、生きてゆけるはずがない。
「そうやって男に棄てられて不幸になってきた女をあたしはごまんと見てきた。悪いことは言わない。今ならまだ、あんたは元の居場所に戻れる。あんたのようなお嬢さんは所詮、飼い慣らされたきれいな小鳥と一緒で、豪奢な鳥籠の中でしか生きていけやしないんだよ」
 隣に座ったトンジュは女将の言葉に対して、否定も肯定もしなかった。
 サヨンは縋るような視線をトンジュに向けた。今、屋敷に戻れば、明日には李トクパルと婚約式を挙げなければならなくなる。
 だが、自分が大事になる前に屋敷に戻れば、女将の言うとおり、トンジュの身に危険は及ばないだろう。一応、捜索は行われるだろうが、たかだか下男が一人蓄電したからといって大騒ぎになるとは思えなかった。家僕の代わりは幾らでもいるのだ。
 一体、どうすれば良いのだろうか?
 女将の言うことをきいて、大人しく屋敷に戻った方が良いのだろうか? それとも、大人の忠告は無視して、自分の心の望むままに生きた方が良いのか。
 考えあぐねているサヨンの傍らで、トンジュがひと息に言った。
「俺はお嬢さまをお屋敷に返すつもりはない」
 刹那、女将が息を呑んだ。
「トンジュ、あんた―」
 〝お嬢さ〟と言いかけ、トンジュが息を吸い込んだ。
「サヨンは俺のものだ」
 そのひと言で、女将はトンジュの気持を察したようだった。

ストーリーメニュー

TOPTOPへ