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氷華~恋は駆け落ちから始まって~

第1章 始まりの夜

「うちの三(サム)泉(チヨン)にもこんな絹の服を一度で良いから、着せてやりたかったね」
 女将はサヨンが今まで着ていた黒色のチョゴリと桜色のチマを畳みながら、しみじみとした口調で述懐した。
「幸せにおなり。さっきはあんたを何とか翻意させようとあんなことを言っちまったが、トンジュはそこらそんじょの軽薄な若い男とは違う。心から頼れる男だ」
 女将がサヨンのチョゴリの紐を整えてくれた。
「あんたが今、着ているのは、うちの娘のお古さ。あたしの娘たって、もう数年も前になくなっちまったけどね。さっきも言っただろ、娘は男に棄てられたんだよ。金持ちの極道息子がぽっと出の田舎娘に甘い台詞を流し込んで、さんざん弄んだ挙げ句、娘が身ごもったって判ったら、さっさと棄てちまいやがった」
 女将のたった一人の娘は、心から愛した男に騙されと知り、自ら川に飛び込んで亡くなった。当時、わずか十六歳だったという。
「だからね。あんたを見ていると、他人事のような気がしないんだ。良いね、何があっても、トンジュから離れちゃ駄目だよ。トンジュの子どもをたくさん生んで、いつかまた孫の顔を見せにきておくれ」
「女将さん、ご恩は忘れません」
 サヨンは涙ぐんで女将を見つめた。
 トンジュが自分に惚れているとか、子どもがどうとかいう勘違いはともかく、女将の厚意は心から嬉しかったのだ。
「おい、おばさん。また余計なことを言ってるな」
 トンジュに睨まれても、女将は笑っているだけだ。
 女将は表まで見送ってくれた。温かいオンドルのきいた部屋から一歩外に出ると、身体の芯から凍えるような寒風が吹きつけてくる。
 この見世特製だというサムゲタンで温まった身体から忽ちにして熱が奪われていった。
 店先に掲げた〝酒〟と記された旗が夜風にはたはたと鳴り、揺れていた。殆ど字の消えかかったその旗が揺れているのが妙にわびしく見え、サヨンの心細さを募らせた。

 満月はいつしか中天に掛かっていた。
 屋敷を出たのが夜中前だったことを考えれば、夜もかなり更けた計算になる。

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