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氷華~恋は駆け落ちから始まって~

第1章 始まりの夜

 風はおさまるどころか、ますます強くなる一方だった。少し歩いた頃、とうとう吹く風に小雪が混じり始めた。丸い月もいつしか鉛色の分厚い雲に遮られて見えなくなっている。
「畜生、道理で冷えると思ったら、降ってきたようですね」
 トンジュは彼にはふさわしくない悪態をつきながら、恨めしげに空を見上げた。
 少しの躊躇いを見せ、トンジュが切り出した。
「女将の話ですが」
 サヨンは何事かと小首を傾げる。
 トンジュは、そのあどけないともいえる仕草に一瞬、眩しげに眼を細める。急に立ち止まったかと思うと、背にしょった大きな袋を降ろし、毛織りの胴着を取り出した。
「これを着て」
 トンジュは胴着をサヨンに差し出した。
「でも、これはあなたが着るべきよ」
 サヨンは首を振った。既に自分は酒場を出る際に、外套を渡されている。これは女将の使い古しだといわれたけれど、寒さを凌ぐには十分だった。
「私なら、これで十分。トンジュは何も上に羽織っていないのだもの。着の身着のままでいたら、あなたの方が風邪を引いてしまうわ」
 トンジュの面に優しい笑みがひろがった。
「俺なら心配要りませんよ。丈夫なだけが取り柄ですから」
 今のトンジュはサヨンがよく知る穏やかな彼であった。 
 だが、と、サヨンは考える。
 トンジュについて知っているといっても、自分はどこまで知っていたというのだろう。これまでの二人の立場は、あまりにも違いすぎていた。ゆえに、主家の令嬢と下男という立場で互いを知り合うのは難しすぎた。
 実際のところ、子どもの頃からの知り合いというだけで、屋敷内でも滅多と顔を合わせる機会はなかった。下男が軽々しくお嬢さまに声をかけられるものではないし、逆にサヨンからトンジュに近づくことも躊躇われる立場であったのだ。
 サヨンが彼を〝知っている〟と思っていたのは、あくまでもその程度のものだったし、また、お付きの侍女ミヨンからの受け売り話を鵜呑みにして、いつしかそのまま自分がトンジュという男について何もかも知っているような気になっていたのだ。

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