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氷華~恋は駆け落ちから始まって~

第1章 始まりの夜

「な、何ですか、いきなり」
「女将さんが私を屋敷に帰した方が良いと言ったときのことよ。あなたは、私が帰る必要はないって、はっきり言ってくれたでしょう」
「ああ、あのことですね。あれは俺の本心を応えたまでです。何も礼を言われるほどのことではありませんよ」
 いかにもトンジュらしい応えに、サヨンは微笑む。
「でも、今だから白状するけれど、あのときは、どうなるかと思って内心はどきどきしていたの。だから、あなたがきっぱりと断ったときには本当に嬉しかった」
 トンジュは軽く頷くと、しばらく黙々と歩き続けた。
 やがて、彼が静寂を破ったのは、かなり歩いてからのことだった。
「これからのことを話しても良いですか?」
「これからって、今後のことよね」
 我ながらもの凄く当たり前すぎる質問だと思ったが、目下のところ、これしか思い浮かばなかった。
「そう、俺たちのこれからのことです」
「―」
 トンジュの言葉にかすかに引っかかりを憶えたものの、今のサヨンには追及するだけの余裕はなかった。
 途中の酒場でひと休みしたとはいえ、屋敷を出てから殆ど歩きっ放しできたのだ。一旦は治まっていた右足の痛みも再びぶり返していた。サヨンは心身ともに消耗しきっていた。
「トンジュは私を厄介者だとは思わないと言ってくれるけど、私はいつまでも、その言葉に甘えてはいけないと思っているわ」
「それは、どういう意味ですか?」
 トンジュの声音がやや緊張感を帯びたのにサヨンは気づかない。
「トンジュは自由になりたくて、屋敷を出るのだと言ったわよね。だったら、あなたは、これからは自分のその夢を追いかけていった方が良い」
「―お嬢さまは、どうなさるおつもりで?」
「正直、まだよく判らないの。私って、本当に駄目ね。女将さんに言われたとおり。世間知らずな上に、ろくに身につけた技術もないし。今回のことで、私は自分がいかに無力か思い知らされたみたい。今まで甘やかされてばかりで、何一つ世の中のことを知ろうとしなかった自分が恥ずかしい」
 サヨンはここで言葉を切り、息を弾ませた。

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