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氷華~恋は駆け落ちから始まって~

第2章 氷の花

 分厚い書物は開かれたままの状態で、なにやら難しげな文字が並んでいた。トンジュにはさっぱり判らない記号の羅列だったが、彼は一瞬の中に開かれたページに並んだ文字を記憶したのだ。
 トンジュはそれが字であるとは知らず、憶えた字を一つ一つ記憶を辿りながら地面に書いていった。そこに偶然、大行首が庭を通りかかった。
 大行首さまは、しばらくトンジュの書いた地面の文字を眺めていた。仕事をサボッていたことを叱責されるかと一瞬身を縮めたものの、大行首は怒るどころか、
―そんなに文字を書きたいか?
 と、問うてきたのだ。
 トンジュはもう愕きのあまり返事もできず、ただコクコクと頷くだけだった。
 その夜からというもの、トンジュは夜更けに大行首さまの居室に伺い文字を習うことになった。まず知っている字を書いてごらんと言われ、トンジュは紙に先日、この部屋で見た難しげな漢字をすべて書いた。
―お前はこれをどこで憶えたのだ?
 怒らないから正直に言いなさいと囁かれ、トンジュは泣きながら正直に打ち明けた。
 大行首からしばらく言葉はなかったが、やがて、子ども向けの優しい本を渡してくれた。それは漢字ではなく、ハングル文字の初歩学本だった。
 トンジュは乾いた砂が水を吸い取るように何でも貪欲に吸収し、ハングル文字を一年で使いこなし、難しい漢字ばかりの書物も三年で難なく読解できるようになった。
 大行首は文字だけではない、計算まで手ほどきしてくれた。一日の仕事が終わってからの勉強だったため、幼いトンジュは、時に途中で机にうとうと突っ伏して眠ってしまうこともあったけれど、大行首は怒りもせず、トンジュが目を覚ますまで寝かせてくれた。
 滅多にはないことだったが、勉強の合間に珍しい菓子をくれたこともあったのだ。
「そんなことがあっただなんて、全然知らなかった」
 サヨンは首を振りながら、今更ながらに愕いていた。父とこの男の間に、そこまでの交流があったとは―。
 道理で、父がトンジュを気にとめていたはずだ。あのときは、たかだか下男をいささか過大評価しすぎると思っていたが、トンジュ本人から真相を聞いた今では、父の言葉が満更嘘ではないのだと納得できる。

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