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氷華~恋は駆け落ちから始まって~

第1章 始まりの夜

 サヨンは彼が子どもだった頃を思い出していた。奴隷商人に連れられやってきたトンジュは、いつも怯えたような眼で人を見つめていた。この屋敷に下男として仕えるようになって十一年の歳月は彼を変えた。
 もう、見知らぬ人間に身をすくませていた小さな子どもはどこにもいない。あのときはサヨンよりも背の低かったトンジュはいつしかサヨンの背丈を抜き、頭二つ分ほど高くなっていた。
 黒いくっきりとした双眸には理知の光が宿り、その挙措には家僕として控えめでいながらも、人としての自信に裏付けられ堂々としている。
 トンジュがコ氏に仕える侍女たちからも熱い視線を集めているのを知らぬわけではない。サヨンの身の回りの世話をするミヨンですら、口を開けば、トンジュの名前が出てくる有様なのだから。
 もし、李氏の跡取り息子がトクパルではなくソンジュだったら―。
 そんな想いが突如として湧き起こり、サヨンは狼狽(うろた)えた。
―私ったら、何を馬鹿なことを。
 奴婢であるトンジュは隷民であり、けして良民との婚姻は許されない。この(朝)国(鮮)の根幹をなしているのは徹底した身分制度なのだ。隷民は仕える屋敷の主人の持ち物と見なされ、売買の対象となる。けして〝人〟として扱っては貰えない。
「あなたには関係ないことよ」
 わざと素っ気ない口調で応えたのは何もトンジュを軽蔑しているからではなく、むしろ逆であった。
 明日、結納を取り交わす将来の良人がトンジュであったなら―と、たとえ一瞬たりとも考えてしまった自分を恥じもしたし、その気持ちをごまかすためでもあった。
「本当に関係ないとおっしゃるのですか?」
 放たれた問いに、サヨンはまたたきで応えた。トンジュの言葉の意味を、何より、このような場でそのような問いを投げかけてくる男の意図を計りかねた。
「あなた―、何が言いたいの?」
 やや詰問口調になったのは、この場合、やむを得なかった。
 そう言いながらも、サヨンは視線をトンジュから逸らせない。ほどよく引き締まった身体には男性らしい筋肉がつき、日々の力仕事で陽に焼けた面は整っていて、精悍さも備わっている。

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