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氷華~恋は駆け落ちから始まって~

第1章 始まりの夜

 あの逞しい腕に抱きしめられたなら。
 サヨンの中をまたしても忌々しい妄想がよぎった。
「お嬢さまが泣いているのは、あの男のせいでしょう」
 はきと口には出さずとも、〝あの男〟が誰を指すのかは判っている。
 サヨンは、苦労して困惑顔を作った。
「あなたの言うことは意味の判らない言葉ばかり。今日はおかしいわよ、トンジュ」
 トンジュが形の良い眉を寄せた。
「おかしいのは、お嬢さまの方ですよ。どうして、泣くほど辛いのに、我慢しようとするんですか? 今のお嬢さまが俺にどんな風に見えるか、お嬢さまはご自分でお判りですか?」
 サヨンは息をのんだ。
「あなたが泣いているのは、李家のあのうすのろ息子のせいだ。あのろくでなしに嫁がされるのが厭で、お嬢さまは、まるで今にも海神への捧げ物として海に投げ入れられる娘のように泣いているんです」
 トンジュのいつにない烈しい物言いに、サヨンは気圧された。
「無礼な言葉は、幾ら、あなたでも許さないことよ。李トクパルさまは、私の婚約者、未来の良人となる方です」
 サヨンが辛うじて平静を装って言い返すのに、トンジュの声が覆い被さった。
「まだ正式に婚約したわけではありません」
 サヨンは茫然とトンジュを見返した。
「本心から、そう思われているのですか?」
 静かな声音が逆にトンジュの切迫感を強調していた。
「もし、お嬢さまが心から李家の息子との結婚を歓んでいらっしゃるなら、こんな夜更けに奥庭で泣いていたりしませんよ」
 〝お嬢さま〟と、もう一度、トンジュが呼んだ。何故か、そのひと言はサヨンの心の奥深くに沈み込み、大きな波紋を巻き起こした。
 これまで堪(こら)えに堪えていた感情がそのひと言によって一挙に溢れ、迸った。
「判ってる! いちいちトンジュに言われなくても、私はトクパルさまに嫁ぐのはいや。あの方に嫁ぐのなら、今、あなたが言ったように龍神への生け贄になった方が数倍もマシだと思っているわ」
 一度溢れ出した涙は堰を切ったように止まらない。
「厭なら、逃げ出せば良い」
 トンジュが事もなげに言い切った。

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